ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

賢治の「現象」と「無機化学」

2016年04月10日 | 自然科学

 

 

 

 恩田逸夫氏は「現象と本体との関係は、賢治の思想の基底となるもの」と角川の「日本近代文学大系(36)『春と修羅』補注で述べられていた。この「現象」について賢治との関連で多くの研究者の発言記述があります。哲学・なかでも現象学そして心理学等々,かぞいきれぬほどであり、なかにはメルロ・ポンティまで述べられてもいる本もあります。むろん恩田氏も「宮澤賢治における現象把握の構造」という,とてもだいじな論考があります。

 まえにもふれたことがあるのですが栗原敦氏が「池田がライプチヒ大学で師事したウィルヘルム・オストワルドの著書から賢治が得たものは決して少なくなかったらしいと言ったなら以外だろうか。盛岡高等農林学校の農芸化学科に学んだ賢治だから、化学は専門分野のひとつ・・・・・・」「夏目漱石ー浩々洞、オストワルド、ジェイムズなど」と記されてる(国文学第三十七巻10号・4年9月号)。ここで栗原氏がいわれている池田菊苗とはまえの写真でしめした「近世無機化学」の訳注者のことであるが、栗原氏は「開成館発行」のこの本にはふれられていなかったので、ここで表題だけでも紹介をしたい。この本は、明治三十七年に発行され、盛岡高等農林学校にも所蔵されていた著書であると思います。

 本論は、第一章から第四十四章 補訂 付録一・二 索引(1~40)です。第一章総論 化学的現象・経験・概念及び自然の定律・時間と空間・物体と物質・性質・均様なる物質及び混合物・性質律の精確の度・純粋なる物質と溶体・一種の物質を鑑識するに必要なる性質の数・帰納・物質の鑑識・色・態形・適用 以上が第一章です。

 現象を自然学諸部門の関連性や化学的現象の関連性などの要点を示されていて、後の章にも燃焼の現象なども記されている。現象・現像・抽象等にも注意深いこの著述は、賢治の「現象」思想形成の原鉱をみるおもいである。

 

 追記 写真 佐藤傳蔵著 地質学提要 (初版昭和三年一月十日訂正版) 発行所 中興館書店 


オストワルド著「無機化学」

2016年03月31日 | 自然科学

  (このブログはラクガキ絵です。幼い2・3歳のラクガキ絵とまったくおなじです)

 

      

 上記写真の本「近世 無機化学」と宮澤賢治が大正七年に父政次郎あて書簡[68{6月九日}葉書]に記されてある オストワルド原著・フィンドレイ英訳 「無機化学原理」とどの程度のちがいがあるのか、わたくしにはわからない。賢治は約六ヶ月後の書簡[93{十二月初め}保坂嘉内あて}には、 日下部氏、物理汎論 上下 ・無機化学、(非金属元素)等を「今年中に読もうと思ってゐる本」とあるところをみると、この分厚い本はまだ読んでいなかったのか。それから手紙であるから英訳本なのか池田菊苗訳の上記の本なのかも解らないが、このころの賢治の書簡などから感じられるのは、福島章氏がいうようにメランコリーの状態のせいであったのか。

    

(新修 宮澤賢治全集 第十六巻)より

賢治研究者の著書には、オストワルドについては片山の「化学本論」からとみられるのであるが、何故かこの「無機化学」はとりあげられていない(宮澤賢治イーハトヴ学辞典 658p)。賢治は読んでいなかったせいなのか。


賢治の赤いトマト

2014年07月28日 | 自然科学

 平来作「ありし日の思い出」(草野心平編「宮澤賢治研究」)の中に「忘れがたい事」として「羅須地人協會」なる一文がある(274p)。

  春になると北上川のほとりの砂畠でチューリップや白菜をつくられたのである。宅の前には美しい花園をつくつて色々な花を植えられた。

  先生はいつも自分が何処かへ出かける時は、小さな黒板に必ず行先や帰りの時間をしるされて出かけるのであった。

  いつか宅に遊びに行つた時不在であつたので、黒板を見たら畠で働いて居る事がかゝれてあつた。早速畠に逢いに行つたら、先生はチューリップの手入れをして居つた。

  先生は仕事を終へてかへり、縁側に腰をおろして二人で色々と語り合つて居る間に、昼飯時間となつた。先生はそばに赤くなつて居るトマトを四つ五つナイフで採つて私にくれた。・・・・・・・前後略。

 平のこの文章では「チューリップの手入れをして」居たのは何月なのかは良く解らないが、「赤くなっていたトマト」の時期なら九月ごろであろうか。  佐藤文郷のこと の中程の文をもう一度お読みいただきたい。

〈大正七年八月一日東北6県農事試験場長会議を八戸分場に開くことになつたので何か珍しいものを作る様にとの命令でであった。それで場長と相談して先ず玉蜀黍と蕃茄を出すことを計画し成功したので場長から賞められた記憶がありますが、其の頃東北地方では露地で8月1日までに蕃茄(注トマト)の完熟は出来なかったらしく、全く今昔の感がある。〉

平の 「春になると北上川のほとりの砂畠でチューリップや白菜をつくられたのである」とはどんな意味だったのか。そして昭和二年の事だったのかも解らないのである。露地の植え込みは、チューリップはヒヤシンスと同じ季節の9.10月頃に行うのであるが、昭和二年か三年の事であったのか。賢治の「MEMO FLORA」ノートには、ヒヤシンスやグラジオラスの球根に付いてのメモはあるが、チューリップの球根は定かではない。平の「羅須地人協會」は、「先生は農学校を辞し花巻の東南の八景と言う一角に自分一人の家を建ててしばらく暮らしたのであった」とあるが、自分一人の家を建てたのではない、宮澤家の別荘として建てられたのであることは周知の事実でだし、春の北上川ほとりの砂畠でチューリップを見たのかどうかはわたしは疑問をかんじる。

 

  


佐藤文郷のこと

2014年04月26日 | 自然科学

 佐藤文郷のことが気になっていた。 「宮沢賢治とその周辺」(川原仁左エ門編著)『「農界の特志家」(佐藤文郷)301頁~』に見られたからである。また「新校本宮澤賢治全集 第十六巻(下)補遺・資料篇360頁」にもとりあげられているからでもある。何かで佐藤のことに付いて記した文を読んだ気がしていたのだが古いことなのでその本が思い出せなかった。整理をしていたら見つかったので紹介をしたい。

               八戸分場時代の思い出  

                                平川 甚四郎

 八戸分場は本場が青森市石江から黒石へ移転にきまったので、南部地方へも分場設置の要望がでた。当時当局としては尻内地区を目標に物色したが敷地と経費の関係で八戸の旧南部城趾、今の八戸小学校の場所に決定した。そのためか土壌は砂利混りやら表土、心土は勿論作土は色々で試験に随分苦労したが反面作物の選定に都合よかった。水田は城趾の南下「長根リンク」の水下であった。

 試験地は田畑共余り広くないのに品種の比較試験を主に各種耕種法等に畑作は南部地方特産の大小裸麦、大小豆、粟、稗、蕎麦、菜種、玉蜀黍、馬鈴薯から各種蔬菜花等に至るまで優良品種の種苗の配布と耕種法改善の指導に努めた。それで南部三郡に亘り委託試験地を設け、之が調査指導にも乗り出すので仲々多忙であつた。職員は場長と私の二人で外に常農夫一人に見習生助手として当時長内孫太郎、前田直三郎、松原庸一、大村末吉、三浦儀一、佐藤多一郎等が居られた。事務室、農畜舎は南側に、場長官舎は正門(今の南部会館真向)の右側にあった。私の官舎が無かったので大正五年二月に就任して江渡旅館に下宿していたが、五月に世帯をもつたので常海町の船越香邸(当時群農会長、後に県農会長)の近所の寂しい所に借家して通勤したが、何分試験場の仕事は今時と違って朝は人夫の指導で六時には出勤、晩は晩で作業は日没までやり、その後後始末をして帰ったので帰るのがいつも夜八時過ぎになった。それに日曜として休めないとあつて新妻に一、ニ回逃げられることもあったが佐藤場長の母堂と奥さんに面倒を見て貰った事を今でも時折当時を追懐して笑って居ります。

 初代分場長は三戸町出身の盛岡高農卒で三本木畜産学校教諭から就任された、佐藤文郷技手で仲々の勉強家で試験計画から万端に亘り識見は高かった、殊に大正六年から全国的に育種(品種改良)に主力を注ぐことになったが、何分試験地は狭いので従来の試験も地方のために縮小する事も出来ず苦労した。

 佐藤場長は仲々の貴公子でお酒は強い方ではなかったが煙草はよく嗜むほうでした。趣味として囲碁、謡曲は熱心でその面で地方民と広く交友を結び信望があつた。当時の本場長は大脇正諄技師で県の勧業課長兼務で月に1,2回分場へも参られた。大脇場長は玉蜀黍が大好物で之を焼いて食べるので場長用として試験地外へ特に作ったものであった。

 大正七年八月一日東北6県農事試験場長会議を八戸分場に開くことになつたので何か珍しいものを作る様にとの命令でであった。それで場長と相談して先ず玉蜀黍と蕃茄を出すことを計画し成功したので場長から賞められた記憶がありますが、其の頃東北地方では露地で8月1日までに蕃茄の完熟は出来なかったらしく、全く今昔の感がある。大脇氏は大正8年から寒地稲作栽培の論文で博士号をとられ間もなく秋田県勧業課長兼試験場長に転任された。その時の記念に私は「農者国本」の一葉を揮毫して貰って書斎に掲額崇敬している。大正7年から黒石本場の中村胖場長代理は宮城県技師へ転任になりその後任として丹治七郎技師が参られたが中村氏は一ヶ年位で再度黒石本場へ復帰したので、丹治技師は八戸分場長として参ることになり佐藤分場長は大脇氏の斡旋で岩手県軽米の製麻会社の試験地の技師として分場長を退任された、佐藤氏も当県技手であったのでせめて技師(高等官)に昇格してからの退任であればと心ある者から惜しまれた。

 丹治分場長は1年位で米国シャトル大学へ留学のため退任、その後任として北大から佐藤弘毅氏が来任されたが之亦2年位で郷里福島県相馬農学校長に転任のため退任された。佐藤文郷氏は軽米の試験地に一年半位で辞められ岩手県農会技師就任され私も会議等で時々会って八戸分場時代を語ったが、岩手県農会在任4,5年で盛岡市で他界された。丹治七郎氏は米国から帰朝後 宮城県農事試験場長に就任、私も2,3回訪問した事があったが其後九州の熊本の試験場長に転任 水稲挽化栽培で名をなしたが丹治氏亦熊本で他界された。郷里は福島で未亡人は書道を教えている。

 私は大正9年春八戸分場から県の穀物藁工品検査所へ転任となりましたが当時は佐藤弘毅分場長在任中であったので私の分場在職中初代分場長佐藤氏、2代丹治氏、3代佐藤氏と3代に亘った次第であります。

 大正10年か、佐藤氏の後任に岩田豊技師が分場長に就任、間もなく分場は今の五戸町へ移転になった。

     (五所川原市役所)

         青森県農業試験場六十年史 昭和34年11月1日 発行   139頁より

 

  

 


「日本稲作講義」と「春と修羅」1

2013年09月30日 | 自然科学

     (画像はクリックすると大きくなります)

      

 川瀬の「肥料学」と永井の「日本稲作講義」は、『本当の百姓になる』決意をした賢治を観るときに、とりあげられて然るべき本であるが、「化学本論」や土壌学の本ほどには、研究者の対称にされていない。千葉明氏の「盛岡高農・関豊太郎教授から岩手大学農学部・吉田稔教授まで」は参考になる論文である。(ただし賢治の大正11年 「岩手県稗貫郡土性調査報告」の参考文献著書は、関豊太郎著「土壌学講義」の出版されたのが大正15年であるから、大工原銀太郎著「土壌学講義」・発行所褒華房その他であろう。)永井威三郎の「日本稲作講義」との連関は「『春と修羅』の『第三集』」の稲作にいくつかが詠まれているので、目次だけでも覗き観るくらいはされたいものだと思う。(「近代デジタルライブラリー」で著者名か本の題名を入力し検索をして、著書名{右側}か{目次・番号}かをクリックすると見られます。)詳細省略。追記尚「肥料学」に付いては「宮澤賢治イーハトヴ学事典」[ライフワークの発進2・3]等を参照されたい。

(下部に線が引かれている文字のところをクリックしますとリンク先が開きます)

 


栽培學汎論(チランチンつづき)

2010年06月02日 | 自然科学

 

 安田貞雄著 植物生理学的 栽培學汎論  養賢堂発行 昭和8・6・5 訂正三版に

   [乙]化学的刺激

 §104 発芽に対する化学的刺激

 〈前文略〉 高橋及び大根両氏〈註〉がチランチンB・チランチンC・ウスブルン・ウベルチンについて其発芽に対する影響を調べた結果、種子消毒の効果は認むるも発芽の刺激に対しては良好の結果を示す事もあり、又逆に発芽を害する事もあって結局坊間に宣伝される様な効果は認められぬと云う。(175頁)

  〈註〉高橋及大根;各種浸漬剤に関する実験。勧業模範場彙報。7.1927.

 毒性もさることながら、宣伝効果に違い、作物増収の効果が認められず、ほどなくチランチンは社会から消えていった。

  (写真画像ではよく見えませんが安田は盛岡高等農林学校教授 農學士 となっている)

 


広告(チランチンつづき)

2010年06月02日 | 自然科学

 

 大正十四年頃と思われる宣伝用パンフレットが、数多く出ていた。

ある説明パンフレットに、チランチンの毒性について以下のような説明文がみられます。

  十八 「チランチン」液に浸した籾や麦は動物に毒でありますか

 答 決して毒ではありませんが念の為一度水で洗っておやりなさい

   つづく


賢治とチランチン

2010年05月30日 | 自然科学

 

 

 花巻農学校教諭時代の宮沢賢治に、花巻の米穀肥料商 八重樫次郎の依頼によって以下のような実験報告書が提出されているのがあります。

 

  「水稲苗代期ニ於ルチランチンノ肥効実験報告

 大正十四年本校試作地ニ於ケルチランチンノ水稲苗代期ニ対スル肥効実験ノ成績左ノ如シ

 一、チランチン使用区ハ対照不使用区ニ比シ種籾腐敗少ナシ

 二、チランチン使用区ハ対照不使用区ニ比シ発育一般ニ旺盛ナリ

 備考 一、更ニ水耕法ニヨリテ定量的試験ヲ行ヒ右結果ヲ確定スベシ

     二、右耕種概要左ノ如シ

         供用品種 陸羽一三二号

         撰種 比重一・一三塩水撰

         浸種 四月十一日ヨリ同十六日ニ至ル

         チランチン使用期日 四月十七日

         芽出シ 四月十七日ヨリ同廿日ニ至ル

         播種期 四月廿一日

         播種量 一歩五合

         肥料 一歩宛窒素十二匁 燐酸十匁 加里九匁 原肥

         管理 初メ廿日間水掛引

  大正十四年六月十三日

                     花巻農学校  

                           宮沢賢治

 八重樫次郎殿

 

 

 「チランチン」には以前から気になっていたのですが、これに関連して以下のような記事がありました。興味深く読みましたので、少し長いのですがコピーでご覧戴きたい。

 

 農薬掲示板の「農薬ニュース議論レス【3】より 

488 : 零細農薬卸    2007/08/28(火) 09:10:11  
新聞記事文庫 農産物(2-053)
大阪毎日新聞 1925.6.1(大正14)

 
薬を用うると野菜は四割の増収

水菜の如きは八割五分増

チランチンの実地試験

--------------------------------------------------------------------------------

限りある土地から、より以上の農作物を収穫することの出来る化学薬品「チランチン」がドイツで発明されてわが国でも現に大阪府下三島郡春日村下穂積で実地に試験している。
本山本社長は三十一日同薬品販売会社々長小田氏等に案内されて視察した
チランチンに種子をひたし、陰ぼしにして後、播種すると、種子についているバイキンを殺菌し適度の刺激を与えて発芽機能を促進し作物のねばりをよくし、
茎を丈夫にし、発育に要する栄養分を充分に吸収せしむるので馬鈴薯などは肌が美しく肉質がちみつになり、大根の如きもヂヤスターゼを多分に含んで甘味が多くなって、
同農場及び農務省農事試験場九州支場等の実験成績では田畑一反歩につき米は二割、裸麦は四割二分、甜瓜一割四分、体菜四割九分、
トマト四割二分、南瓜四割五分、里芋二割五分、ホーレン草六割四部、水菜八割五分、蔬菜類は平均四割以上、稲麦作で二割以上の増収となつている
この薬が発明されたのは欧洲大戦中で発明心に燃ゆるドイツ魂がついにリービッヒ博士をして発明せしむるに至ったのである。
以上は神戸大学図書館の資料です。
同時代、宮沢賢治が この剤の試験を小売店の依頼で実施している事が
宮沢賢治記念館のパネルで紹介されております。
彼は石灰による土壌改良にも取組んでおりました。というより
石灰のセールスマンもやっておりました。広義では業界の先輩でございます。 

  

 

 校本全集の校異に 「〈前略〉 チランチンは、当時、ドイツから輸入された種籾等植物種子の消毒剤である。後、毒性が強いため販売中止になった。〈以下略〉」 と説明されています。賢治のこの依頼報告書は、他の在学時提出論等に比してあまり関心をひかれない感があります。

 当時の状況は、コピーでお読み頂いたように概略が解りますが、もう少し具体的な面を見てみたいと思います。

 依頼した八重樫氏は、写真のような宣伝用パンフレットをおそらく見たのでしょう。

    広告サイズ 195×270

     つづく