ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

葱緑

2010年03月27日 | 随想・日記

 

 宮沢賢治の詩に「葱緑」がたびたび出てきます。浜垣氏の「宮沢賢治の詩の世界」によると七例あるとの事です。(検索が出ましたならばお手数ですが葱緑の文字をお入れしてご覧ください)

 昨年この「葱緑」について、「イーハトーブ・ガーデン」さんのブログにメールを致しましたことでもあり、その関連で少し補足を致したいと思います。

 倉石武四郎著「岩波 中国語辞典」(1963・9・16発行)89頁に

     cónglűē  葱緑 {名} あざやかな黄緑色

とあります。

 

 藤堂明保編 「学研 漢和大字典」(昭和53年4月1日初版発行)1118頁に

     【名】 ねぎ

      【形】 青い

とあります。(上記写真)

 岩波に出した書簡214a に、作品「鳥の遷移」(春と修羅第二集)の謄写刷りを同封したとあるそうですから、葱緑は賢治造語でも、また、「新 宮沢賢治 語彙辞典」で示されている英語やドイツ語等からではなく、この語は漢字からの得られたものではないかと考えられます。(新 宮沢賢治 語彙辞典は1999年の発行・藤堂の漢和大字典は1978年。何れも語彙辞典よりも古い。)


謎の十字屋書店版

2010年03月27日 | 随想・日記

 

 上記の写真は、以前にも紹介したことがありました十字屋書店版「宮澤賢治全集」の第一回配本「第三巻」奥付写真です。

 筑摩書房版(三十三年)の小倉豊文作成「宮澤賢治研究文献目録」にあります「昭和十四年十一月、第一回配本」記載は、大山氏も指摘していましたが間違いでしょう。

 余談ですがこの第三巻は、百部限定の一冊で上質な紙を使用した豪華本です。

 わたくしにとって十字屋版全集は、思い出のいっぱい詰まった本でした。学校の校長室に有ったことをT先生と話し合った。その先生も今は遠くの彼方である。

 この十字屋版全集は、制作過程が謎が多く含まれております。この謎は清六氏に全く関係が無かったのかどうかが、明らかにされて欲しいとの思いです。

出版された本によっては、編纂者が八人であったり七人になったりしています。森惣一が入っているときには宮澤清六が消えて七人、森惣一が消えて宮澤清六が加わる、それにも統一制が見られない等々。

当時宮澤家の二階で、賢治の原稿整理にあたられていた飛田三郎のことは如何様であったのか、また清六氏の全集への加わり方をも含めて、謎として終わらせては済まされない十字屋版時代の事が、おもく考えさせられる。

 また、昭和二十七年から八年にかけて、奥付に張られている藤原印の上製本は、藤原氏に、宮澤家からの援助であったのであろう。賢治精神を継いだ藤原氏は開拓農業で苦戦中であった。

 


十字屋書店版ふたたび

2010年03月01日 | 随想・日記

 

  『(財)宮沢賢治記念会 「修羅はよみがえった」 宮沢賢治没後七十年の展開』が出版されてから二年以上になる。多記にわたりこの本に教わることが多い。しかしいくつか疑問も感じられる。一つだけ記す。

 宮沢賢治全集 十字屋書店版の完成時期に付いて、栗原・杉田両氏は昭和十九年二月(58頁・157頁)とし、杉浦・大山両氏は十二月完成(178頁・484頁)としている。以前から話題のところである。

 わたくしのところにある「別巻」初版(奥付写真)は、「十二月」の所を砂消しゴムか何かで消された痕がみられるが、第二版・第三版等の奥付にはすべて第一版の記載は二月になっている。

 「昭和二十年一月、銀座の料亭「浜作」において出版の完成し終えた最後に編集委員会が行われた」とあるが、十九年の二月では、何故翌年の一月なのかはについては、いかに戦時中とはいえ説明に窮する。

 今回も二月説が妥当か十二月説が正しいのかはみられなかった。