ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

宮澤賢治の肖像

2013年01月18日 | 随想・日記

    

        

 『「宮澤賢治入門」は、旧著「宮澤賢治の肖像」(昭23)と、「宮澤賢治批判」(昭27)の二冊と、若干の削除・増補した』本だと「みちのくサロン2号」に、勝治さん本人がそのように書いている。

 『「山荘の高村光太郎」あとがき』(207P )には、高村光太郎が、十字屋書店へ照会された経緯及び印税の契約の事などと、『本の題名を「法華経の行者宮沢賢治」とした方がいいではないか』等と言ってくれた。著書名に付いてはあの時は古めかしい名称だとおもい、その名はいただかなかったと書かれている。姉崎嘲風の「法華経の行者日蓮」が思い出されたのである。

 勝治さんはわたくしに、この本は「宮澤賢治の肖像」にしたかったが、「この署名は森さんにもっていがれたもんや」と話された事がある。たしか森さんの本よりも勝治さんの本が世に出たのは早いはずであるが、勝治さんは私に話された様なことは何処にも書かなかった。勝治さんは「肖像」には拘りがあった(「山荘の高村光太郎」ー能面についてー)。むしろ『「山荘の高村光太郎」この本の成り立ち』には、この本の「山荘の高村光太郎」が出来たのは森さん等のおかげだと、感謝の気持ちを最後の一行に記されいて、決して個人名で他人の事を悪く書かなかった人であった。いまだに私は良き先輩のようにできずにいる事が恥かしい。

 「美」のことに関してはここでは省略する。恥の書きついでに次回はもう一つ花巻の人を書きたい。

   つづく

 

 

 

 


美の宗教

2013年01月15日 | 随想・日記

 

 「山荘の高村光太郎」の「高村光太郎の思い出ー懐かしい先生ー」(75頁)に

  私が山口で先生と御一緒に暮らしたのは、昭和二十年の十月から、昭和二十二年の三月までであります。

と記されている。「コスモス協会」が出来たのは二十三年の暮れか二十四年の初めころだったのかもしれないが、その頃からわたくしは佐藤勝治氏を「勝治さん」と呼んでいた。いや正確に言うと「かっんちゃん・かっちゃん」と訛って呼んでいた。いやいや「つ」の小文字には濁点が付いていたかも知れない。佐藤名が多かったからでもある。というわけで、ここでは失礼ではあるが佐藤勝治氏を勝治さんと記すことをお許し願いたい。 

 勝治さんが盛岡にお店を出されて、長男のお子さんがお生まれになったころである。「お手伝いさんが欲しいが、心当たりがないか」との事。中学を卒業したばかりの農家の女の子を紹介したが、はたして役にたったのか私は知らない。その子にもまた勝治さんにも聞く機会を逸した。

 勝治さんは何時の頃からかはわたくしは知らないが、姉崎正治の「法華経の行者日蓮」や「美の宗教」(博文館)を読まれていた。「美は芸術にも、詩にも歴史にも、人の心にも、善の行にも、又聖者の一生にも見える。美を愛する愛が真の無私の愛である」(美と宗教60P)と彼は深く心に抱いていた。著書「山荘の高村光太郎」はそのような本であるとわたくしには思える。

 つづく