ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

佐藤隆房著 宮澤賢治

2009年07月13日 | 随想・日記

 

                      写真は三冊の「宮澤賢治

 

 

    ① 昭和十七年九月八日発行             276頁

    ② 昭和二十六年三月一日発行            331頁

    ③ 昭和四十五年10月一日第五版第一刷発行  360頁

  佐藤隆房(さとう たかふさ)著「宮澤賢治」の ①は初版 (③の奥付に日付記載あり)。  ②は奥付に版数の記載なく、初版と同じ形式である (初版と紛らわしい。但し 第四版序として、その序の末に 二十五年十月十五日の日付で著者の記載がある)。②と③は、①を全般に写真画像の差し替え及び位置変えや、誤字・語句の訂正削除と、いくつかの追加文がある。なお②には 「第四版序」として次のような記載ある。 「十一篇を増補し、写真の一部を改め、仮名も出来るだけ実名にした。」とある。③の「序」には、「新たに五編を増補」とある。又「『宮沢賢治』のできた頃」として 市村宏の序文がある。市村は「当時冨山房の企画をあずかっていた」と記されている。

  米村みゆき氏(以下敬称略)の「宮沢賢治を創った男たち 第六章 創られた賢治伝」で佐藤隆房もとりあげられていた。佐藤については今までに言い尽くされているが、ここでは佐藤の「宮沢賢治」が世に出た一側面を考えてみたい。早い時期の宮沢賢治を世に知らしめた著書でもあるから。

 

   初版奥付の前の頁(276頁)に、著者の後記が載っている。書き出しを引用する。

  本書を出版するに当り、中央気象台技術官養成所教授加茂儀一氏が拙稿をお認めになられ、これが出版を冨山房に慫慂して下さいました。ー以下略ー

 佐藤隆房は加茂儀一と如何様な知己だったのか、わたくしは知らない。何処で知り合ったのか知りたいのであるが、以下この事に付いては推測の範囲でしかない。

 わたくしの知人で、鳥谷ヶ崎神社の石段を登り切った右側に住んでいたM が、よく加茂儀一の事を話されていた。加茂の家の書斎の事や、加茂家の知人とのことを話されていた。羽仁五郎もその一人であるむねを語っていた。「羽仁の『ミケルアンヂェロ』はロマン・ローランのミケランヂェロより優れた研究書である」ことをM は力説していた。私は加茂儀一の翻訳書や氏の著書には興味があったが、M家 の親戚であった様に思っていた。しかし M の兄が加茂と何らかの関係があったのかもしれない。詳しいことは聞かづじまいだった。それにしても古い話である。戦後翌年か翌々年の話である。加茂は高村光太郎と同じように東北に疎開していた話は聞かない。

  さて 「気象技術官養成所」に付いては「篠原武次著 積乱雲の彼方に 文芸社発行」に当時の時代状況がかいま見られる。「宮沢賢治」が出版された同じ年・昭和十七年と、この「積乱雲の彼方に」に掲載されている写真「教室での懇親パーティー」や「卒業写真」には加茂が見えている。余談であるがこの「中央気象台技術官養成所」には藤原咲平や和達清夫がいた。誰もが知る雲や気象の専門家である。賢治の作品では「雲」に関するものが最も多い(新宮沢賢治語彙辞典参照)。この「積乱雲の彼方に」には、また湯川秀樹等と共に戦後で世界連邦運動の平和へ尽力が行われた事も記されている。

 本題に戻るが、佐藤は加茂と如何ような経緯で佐藤の「宮沢賢治」の原稿を見られたのか。本人同士が遭った形跡はなさそうである。それともそれは誰かを通して行われたのであったのか。「宮沢賢治」が出来上がるにあたっては、佐藤の書生(又は協力者)がいた。多忙な著者には当時としてはそのような事は通常であり、またそのような事が噂で取りざたされたこともある。このような事は不自然でもなんでのなかった。もしやこの書生が、加茂との仲立ちやもと、あらぬ推測を考えてみたりもした。これはあくまでも私の惟側である。それにしてもこの「宮沢賢治」なる本は当時から世に賢治像を与える影響大いなるものがあった。

 

  篠原武次著 「積乱雲の彼方に」 文芸社発行は 文芸社の御好意で

  Google ブックス で見られます。

  見方 Google  「積乱雲の彼方に(一字あける)加茂儀一」で

      検索 ⇒ 一番目をクリック で御読みになれます

 (気象技術官養成所をクリックしてもご覧になれます)

 


トルストイ 藝術論

2009年07月12日 | 随想・日記

 

  「宮沢賢治の読んだ本」に (69)芸術論 トルストイ がある。{但し発行日・発行所・定価(単価円)・寸法・備考等の記載が無い}

 「新 宮澤賢治語彙辞典」には、

  トルストイの影響は賢治がかねて愛読していたと思われる『芸術論』(1906・博文館「帝国百科全書第百五十五編)が中心と推定されるが、このトルストイズムもまた大正の時代思潮の大きな柱であった。賢治の「農民芸術」論でも柱の役目をしていると言っても過言ではない。{557頁}

 とある。

 賢治とトルストイを論じるには、この著書を欠かすわけにはいかない本だと思う。

  この「藝術論」は、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリ」で自宅のPCで見られる。便利になった時代であるが、難点はマイクロ化された「著書」は実感に欠ける。