ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

「ナガラベット」=グラジオラス

2007年06月28日 | 随想・日記

   つづき

 我が家の庭に祖母がダリアや「ナガラベット」を植えていた。

小生が「ナガラベット」をグラジオラスだと言っても、誰も信用することはないだろう。

 そんな考えから前回「町の民俗」の著者森口氏の著書を引き合いに出させてもらった。

 

 「ナガラベット」(ナガラ別當)=グラジオラスは《唐菖蒲》(鳶尾科)

 

 昭和の十年頃の我が家の庭の畑との境目に、色々な花が植えてあったが、

そのうちの花に祖母の言う「ナガラベット」があった。グラジオラスである。

は三色程あったと思う。紅色、黄、紫紅色は斑点があったのを覚えている。

 

 我輩の子供のころは庭の花や野草などは、男子の興味を持つものではない、

と言った雰囲気の時代であった。 賢治の「下ノ畑」の北側の外台川原は、

牧草用の草原(クサハラ)で、演習ごっこの最適の場所であった。シロツメ草やアカツメ草が

びっしりと生えていた。そこは枝振りの良い一本松を中心にして一面蔽っていた。

 また北上川の土手近くは、オオマツヨイグサが大きく伸びて次から次えと咲く

黄色の満開の景色が懐かしく思い出される。少年の時は植物に興味はなかった。

 戦後盛岡に汽車で通い始めた時、友達に誘われて山の散策に連れて行かれた。

それまでは全く興味がなかった。

 

 「賢治とモリスの館」で、ナガラベットを、「盛岡に問いあわせている」とのことだが、

どんな返事があったのであろうか。    はいけませんですかね                   

 

     つづく

 


ナガラ別當

2007年06月26日 | 随想・日記

  つづき

  「あづまぎく」は、サラバナとして南部地方の一般的な呼び名。

 

   ザンギリカブのカブは頭の意味で、膝頭の方言はヒザカブである。嬰兒に頭を横にふらせるときの囃し言葉は、「頭カブカブカブ」である。盛岡では翁草をツボッケと呼ぶ由。これには小さな坊やといふ意味が籠つているのであろう。<19頁>

 

 さて、「町の民俗」のなかでの圧巻のひとつは、「動植物と方言」の所だろう。「岩手の民俗」<これについては後にふれる>の著者ならではの内容である。此処で以下少し引用しよう。

 

 ザンギリカブやサラバナコはその形態から着想された俗称でであるが、母がグラジオラスを「ナガラ別當」と呼んだのは一個人の瓢軽な思いつきだつたのであらう。花茎が長くステッキのように延びるからである。ミトラの神のかぶっているフリギア帽のやうな形をしている紫の花を指して、これは「安部保名狐狩」といふ名前のものだと少年の私に教へてくれた人があつたが、それは庭に移植された秋の野草のトリカブトであった。花の形が神楽に出る保名の烏帽子に似ているので、その人が勝手にそんな名前を案出したのであろう。

 ハルシャギクをオイランソウと呼ぶのは郷里では一般的であった。その草振りが嫋々として、黄に褐色の輪をめぐらした天鵞絨細工のやうな花はあでやかな中にも可憐で、いかにも花魁草の名にふさはしい。東京では草夾竹桃を指してオイランソウと呼ぶのを聞いたことがある。

 花鬘草を巾着牡丹、女郎花を粟花コ、猫柳の花をポンポコ、細かな黄花の群がり咲く景天科のマンンネングサの類をコンペントグサ(金平糖草)と呼ぶのは、各々その花の形態からである。<77頁~>

 

 森口多里のミンッァは伊達藩である。宮澤賢治の生まれたところは花巻で南部藩であるが、どちらもジェンゴ町である。

 昭和の初めころまでは、相去りを堺に両者の制度にいくらかの違いがあった。現今、方言にも残されいる微妙な違いについて、土地の古老にいかほど解るのであろうか。「町の民俗」はその点から見ても貴重な本である。

  つづく


水沢(ミンッァ)

2007年06月26日 | 随想・日記

 

    森口多里著「町の民俗」から  Ⅲ

 

  水澤ーー訛ってミンッァーーの町の話が語られている。

 此処では方言の話を採りあげよう。

 水澤と花巻の方言を比較した場合、さほど変わらないかも。

 オレァ(お雷)さんや、クゾー(葛)の<葉>、ノッコ(柔らかい草地)は変わらない。

カラゲァーズ(行々子)は花巻ではゲァゲァズか。 <此処で少し引用する>

 

 北上河の岸に接した草地は日南に足を投げ出した坐るにいゝノッコ、花後は淡緑の散切頭になるザンギリカブ(翁草)と雛菊の花を空色にしたやうなサラバナコ(あづまぎく)との群生地である。少年の時代を回想して最もなつかしく思い出される野草は、この二つである。現に私はこの二種を故郷地方から送って貰つて庭に植えている。ザンギリカブの方は牛蒡根だけあって強く、春毎に外側が柔らかな銀毛に蔽われた赤紫色の花を傾けて開くが、一旦雨が降ると、天然の草地でないためか、泥がはね上がってずぶ濡れの尨犬のように汚く濡れしほれてしまふ。花後のふさふさした散切りの毛は陽を受けて銀いろの絹糸のやうに光る。

 つづく


風屋日記の「岩手弁講座」 

2007年06月25日 | 随想・日記

 花巻から発信

 不定期連載 風屋の「正しい岩手弁講座 {拾い読み案内

 

  制作日                       (番外編)

  2005-08-04                 2005-08-03 (東北弁)

  2006-02-03                 2005-08-09

  2006-03-25                 2006-03-18

  2006-07-21  (vo 1.4)        2006-04-12 <コメント22>

  2006-08-17  (vo 1.5)        2006-09-19

  2006-12-14  (vo 1.6)        2006-11-06

  2007-02-08  (vo 1.7)        2006-12-06

  2007-06-18  (vo 1.8)        2007-01-12

                              2007-01-19

                              2007-02-10

                              2007-04-03

                              2007-04-11

 

 コメントも参考になります。是非お読み下さい。

 

 http://blog.goo.ne.jp/k_kazeya/

 

上記の制作日からお開きになりご覧下さい。番外編は小生のお薦め

 


不謹慎な日記

2007年06月16日 | 随想・日記

 

  雑用に振り回された今週であった。明日は父の日、人生の友?のビールが届いたので前祝いにイッパイやった。こんな日記だ。眉唾でご覧あれ。

 

 テレビを見ていたら、宮崎県の百十一歳の長壽記録者についての、お祝いの報告ニュースがチラッと出ていた。明日の新聞で確認したい幾つかのことがある。宮澤賢治が生まれた年でも有るからだ。

 

 今回の長寿者の方の,今から百十一年前の生年月日が、戸籍上にどの程度の正確さで記録が為されていたのかが知りたいのだ。

 

 気になるのは宮澤賢治年譜に、賢治の生年月日は戸籍上では八月一日であるが、「諸般の事情を勘案した結果、八月二十七日」とされてあるからだ。(現在は八月二十七日でとうされている)

 

 二十七日誕生説に深く関わったのは小倉豊文氏である。小倉氏が言われている「当時の事情だけの事」であって、賢治の出生の事実確認の証拠は何も無い。推定のみである。「出生日確定のための考察」を書いた奥田氏の推定も曖昧だ。つまり賢治の生まれた日は八月二十七日に生まれたと言う確たる証拠は何も無いのである。

 

 確実に残されているのは、戸籍上の八月一日と、賢治自身の「農学校に提出した履歴書」だ。本人は八月一日と記している。

 

 何時の日か賢治誕生日が、資料ともども明らかになる日が望まれる。

 

 


良寛歌集と土岐善麿

2007年06月08日 | 随想・日記

  日本古典全書 良寛歌集 朝日新聞社刊 の附録に

 

 良寛は生前自選の歌集がなく、死後四年を経て若い女弟子の貞心尼が編んだ

「蓮の露」が最初のものであるといふことであり、それから次ぎ次ぎに敬慕者たちが

収集整理したのであるから、同一作品のようであって、しかも一ニ語の相異した

ものもまじっている。これは請われるままに、気の向くままに、そちこちで

書きあたえたものが作者自身によって、すこしづつ違って伝わったとみるべきであろう。

それを研究してみることも、表現上、おもしろい資料とおもはれるが、

従って数種の歌集の中にも錯誤を記したものがあるらしく、そういふ点からも、

それらを比較調査して定本的な一冊のつくられることは、われわれにとっても、

はなはだ便宜であり、地下の作者にとっても、喜ぶべきこととしなければなるない。

この古典全書の新修がその期待を果たし得たものとすれば、

まことに感謝すべきである。(以下略)

 

 「良寛について」と題して 土岐善麿氏が記述 されているのである。

 

  吉野秀雄校註で昭和二十七年に出版された。

 

  その後には以下の「良寛歌集」が編まれている。

 昭和三十四年には 井本農一 関克己 校註で 角川文庫

 昭和三十八年には 東郷豊治編著で 創元社  

  等々の先人を継承され そして

 

 2007年6月10日 横山 英 考古堂書店から

 

  校本 良寛歌集 が 静岡県良寛会の諸氏の努力で出版される。

 


校本 良寛歌集

2007年06月07日 | 文学

 

    校本 良寛歌集  横山 英

 

  静岡県良寛会関係者によって

  同上 写真のような書が出版された。

 

 あとがき に

 ・・・「文学における作品が、その一字一句を大切にするならば、

作品は常に正しく伝えられなければいけない。」と。

 

 良寛研究者にとっても、また愚生のような良寛フアンにとっても

このような本は待望の書であったことはまちがいない。

 

 


良寛

2007年06月05日 | 随想・日記

   学友からお手紙を頂戴した

横山 英著 「校本 良寛歌集」 の編集と校正に半年間を費やされ

このたび新潟市の 「考古堂」より出版のはこびとなり、愚生に「記念にお送り」してくれると言う。

高価な著書のようだがえんりょなく頂戴する事にする。待ちどうしい。

 

 良寛にひかれたのは、東郷豊治著 「新修 良寛」であった。

柳田聖山の「沙門良寛」や吉野秀雄にもひかれた。

石田吉貞の「良寛ーその全貌と原像」は「隠者の文学」とともに、もう一度読み返して見たい。

 

 石田ははじめに「点描」に次のように書き始めている。

良寛の資質を知るために、その家の血を説き、少青年期に受けた傷が、

禅に導かれて漂白の詩の旅路を歩まれた、とする。

隠遁も奇行も遇行も、おどけ滑稽等々も、哄笑と哄笑とでふれあうのが、

無類の社会的人間失格者としての、世間に生きることであったと小生は読んだ。

 

 よく良寛を理解もせずにただただ夢中になっいたころを、思い出せてくれた

大兄に感謝しつつ記す


案内状

2007年06月03日 | 随想・日記

 つづき

 謄写版の案内状日付は、大正十五年十一月二十二日・

 十一月二十九日から講義が始まる。」とある。

 十二月一日定期の集会行なう。

 

 上記に記したのは関登久也著「宮澤賢治素描」(205頁)からだ。

十二月一日の午後一時から「協会」で集会がおこなわれている。そして

 翌日(二日)セロを持つて上京する為花巻駅、みぞれのなか

沢里武治一人見送る。そして晦日に帰花。

 在京中にエスペラント学者であるフィンランド公使の講演等については

「語彙辞典」に記されているが、上京以前にエスペラントについて

相当な見識がなければ「協会」案内状にあのような内容は書き得ないであろう。

 遠野物語の人 佐々木喜善もエスペラントの「講演」などをしていた。

追記 6月5日

 「宮澤賢治とエスペラント」

 著者  野島安太郎

 編集  峰 芳隆

 発行所 リベーロイ社

 1996年6月22日発行

 ページ数 145ページ

 本体定価 800円

 http://www.geocities.jp/hpcriticism/published/esperanto.html

 上記「言葉の創造」にある「宮澤賢治とエスペラント」参照されたし


賢治とエスペラント

2007年06月03日 | 随想・日記

 昨日の二次会で、賢治とエスペラントについて

お話をされていた方がおられた。

 羅須地人協会の定期の集りや講義を始めた案内状に

「三月中 エスペラント 地人芸術概論」とありました。

  「高橋慶吾さんが所持されていた」案内状内容は下記の通り

 

 一月十日(新暦) 農場ニ必須ナ化学ノ基礎

 一月二十日    土壌学要綱 

 一月三十日    植物生理要綱 上部

 二月十日     同上     下部

 二月二十日    肥料学要綱  上部

 二月二十八日   同上     下部

 三月中      エスペラント 地人芸術概論

 

  「教材」内容については、「新 校本全集」に掲載されていると思います。

 つづく 


宮澤賢治研究会

2007年06月02日 | 随想・日記

 宮澤賢治研究会から帰ってきた

今日は楽しかった。

 何より二次会が良かったかな。

 内容については気が向いたならば書こう。

 これらに付いては<種山ケ原の夜>の総決算?

 いやいやこれからでしょう。

  きょうはこれまで、ドンドハレ


農民芸術実践者

2007年06月02日 | 随想・日記

  宮澤賢治が「羅須地人協会」で農民芸術の実践を目指したが

残念ながら目的なかばで挫折した。

 その思想が松田甚次郎の実践にも影響を及ぼしたが

現在北海道の余市町で「農民芸術学校」を開校している、その

賢治精神実践者がいる。http://www.phoenix-c.or.jp/~m-ecofar/

 牧野時夫氏は育種研究者でもあり、音楽家でもある方だ。

 いちどホームページを開いて活躍ぶりをご覧じられたい。

 

 ブログは、自分のものでもあるが、社会に関与している

おおやけのものでもある。

 日記帳であれば、自分本人だけでの意志で自己のものたり得る。

 ブログは個人の発意で行なうものであろうが、

画面に載せたいじょうは社会への何ほどかの関与となり、自己責任と

その時代のものとしての一環として有る意味での役割が課せられている。

 時代の恩恵としてのブログは、少しでも社会に

還元するものでありたいと思う。