「校本 宮澤賢治全集 第四巻」に[しばらくだった](255~256頁)に次のような詩がある。
前省略
川から水をあげるにしても
こゝはどうにもできないなあ
水路が西から来るからねえ
…はんのき
上流から水をあげて来て
耕地整理をやるってねえ
容易でないと思ふんだ
こんどは水はあがっても
その費用が大へんだ
以下省略
この他にも賢治は「ここのさきに水揚げ場ができるってね」とも記されていた。
戦後のアイオン台風で「水揚げ場」は泥だらけで無残な姿であった。
何年もたたずに土手や水路がしばらくあったがそれも変わった。
「みちのくの山野草」(2月24日)を拝見してこの「詩」を思い出した次第である。
賢治自耕地の近くに(滝清水神社方向)、我が家の畑が今も有る。戦前であるがそこからは「煉瓦工場」の煙突が見えた。また晴れた春、その左側遠方には岩手山がまだ雪化粧すがたも。
賢治の詩「春と修羅 第三集」の「煉瓦工場」に関連して、小澤俊郎氏の「煉瓦工場」や木村東吉氏の「・・・-煉瓦工場によせる心象を中心に」等がある。拝読していていくつか感じたことがあるのですが、そのことについてはいつか記すことにして、ここでは当時の岩手日報の記事を紹介したい。
岩手日報 大正10年1月1日 朝刊 22頁
大正8年9月5日 朝刊2頁6段目 大正9年3月29日 朝刊2頁8段目
(オマケ)大正15年8月13日 朝刊3頁8段目
北ニケンクワヤソショウガアラバ
ツマラナイカラヤメロトイ つたかどうかは解らないがこんなことがあった時代でした。
(どこかにこのことに関連して記したことがあったが、機会があったなら続きを記す)
上記の写真は、明治の終わりころから大正時代の「高専」で使用されていた教科書の一部である。「改訂 肥料教科書」の持ち主氏は「肥料試験執行日・・何日」と表紙裏面に書き込みがあり、猛勉強の跡がみられる「教科書」である。「鉱物」の本には百頁少しの中に写真画像が120図も掲載されていて楽しく学べる教科書になっている。賢治がこれらの教科書で学んだとはいわないが、そのとうじのことがみえてくる感じである。
これらの本をみながら、賢治の大正七年父にだされた「書簡」の一部(科学・化学関連)はどのような事情で書かれたのかを勘案するひつようがあるとわたくしは思う。「書簡」{68[6月9日]}にある「書籍」の内容を「賢治伝」に使用されることや、科学における賢治の世界観形成のことばに、書簡「67」「72」の記載語句をそのままつかわれるのはわたくしにはあまり賛成できない。(「書簡」{72}と{54}とをお読み願いたい)
★ 改訂土壌教科書佐々木祐太郎著(明治四十五年二月十日改訂四版)
★ 宮澤賢治の地的世界 加藤碵一著 (2006年11月20日第1版)
今月の初めに「重力波の観測に成功」というビックニュースがあった。重力波のパルサー結合のシュミレーションの画像をGoogleでみていたら、私にはなにかアルコールが入っていたせいか上記の絵とダブってみえた。
上の本のカバー絵は 「中世記にドイツのライン河畔のビンゲンに居住したヒルデガルトというベネディクト会の修道女・・・自らの霊的体験を曼荼羅の如き円形の絵で表した」溢れんばかりの光りをあらわしている波動場景の絵だという。
二日ほど前に『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』というほんを著者の鈴木守氏から頂戴した。ここでは書評やこの本の感想ではないのをお許し願いたい。書き出しが大変ユニークな、神の存在証明などというL・ボグベンの「百万人の数学」を思い出させてもらったことである。そしてこの本の第四章に「涙なしに学べるユーグリット」があるが、この本にはこれ以外にもずいぶんとしばらく惚れ込んでいたことを思い出したので取り出してみた。つづく
ヘッケルや「進化論講話」の丘浅次郎両関連の賢治研究著書は良く拝見するが、大工原銀太郎に関連して論じられているのにはあまり拝見しない。「新宮澤賢治語彙辞典」や「宮澤賢治イーハトヴ学事典」等にも書かれていないのが不思議である。千葉明氏が「盛岡で土壌学を講じた人びと」に酸性土壌に就いて少し触れられている。参考文献にも大工原の「土壌学講義」は上巻のみである。「新校本 宮澤賢治全集 第十四巻」の地質図や肥料用炭酸石灰関連を視たならば大工原の「土壌学講義」が参考にされているのがあるのにである。関豊太郎教授に目が行き過ぎているように私は思う。
さて ヘッケルと丘に就いては多くの方々がお書きになっているので、こんな古本があるのは、どなたもご存じでしょう。
「生命の不可思議」は省略・ 「自然の芸術的形態」 この本が賢治時代に日本に入っていたのか。国会図書館にも大学の図書館にも小生には見当たらなかった。ご存知の方は是非ご教示お願い致します。
賢治の読んだ丘の本は右側の「新補 進化論講話」のほうでしょう。ところで詩ノート[生徒諸君に寄せる]に「新しい時代のダーウヰンよ/更に東洋風静観のキャレンヂャーに載って/銀河系空間の外にも至って/更にも透明に深く正しく地史と/増訂された生物学をわれらに示せ」とある。余談であるがこの本は「新補」である。賢治の詩には「増訂」とあるのに、はやとじりの小生赤い判の「贈呈」と勘違い。我ながらふきだした。
「宮澤賢治イーハトヴ学事典」1898~1934・162r.259I 1916-19に大工原銀太郎に関してしっかり書かれていました。上記の文訂正いたします。2月4日
明日10月3日「宮澤賢治研究会」で「宮沢賢治とアレニウス」と題して大沢正善教授がおはなしなされる案内が届いた。賢治座右の書「化学本論」にアレニウスの写真がでている。また「-方に宇宙物理学の大家として、光圧の理論より彗星の形を説明せる等の有力なる論文あり」と写真裏面にかかれている。この写真等には賢治もおおいにひかれたように思えるのだが、大沢教授のお話のなかに「化学本論」との関連はどのようなのか興味がもたれるところである。
上記写真は片山正夫著 「化学本論」 発行所 内田老鶴圃 大正九年八月一日第五版発行 定価金八円五十銭 より(第三版もおなじである)
はなしが違うが、「生誕百年記念 宮沢賢治の世界展」の本に力丸光雄教授が「化学と賢治」「片山正夫著『化学本論』」の写真が掲載されていた。「増補訂正改刻版」とみられるから大正十三年第六版以後の本であろう。「宮沢賢治の読んだ本 ー賢治所蔵図書目録ー」にも本の価格などをからみてこれと同じように記されているが、賢治蔵書はおそらく第五版以前のものであろう。清六氏の「賢治の生涯」に「農林学校時代」(大正4~7年)に机の上にこの本と「国訳妙法蓮華経」がのっていたというのであるから(このことは些末のことかもしれないが)。
恩田逸夫氏が「四次元」114号に宮澤賢治の「八月二十七日 出生説への質問」なる論考を提出された。その翌月の115号「四次元」に、「誤謬の諸相(1)高村光太郎の『間違のこと』」と題して以下のような書き出しで掲載されている。
宮沢賢治の出生日について、戸籍上と家の人の考えとで違うといわれていることに関心を持って、『八月二十七日説への質問』を書いてみた。ところがその直後、高村光太郎にもやはり出生日の正誤に触れている文章があるのを知って、たいへん興味深く感じた。勿論これは賢治のことについてではなく、自分の出生日をはじめとして、語謬の種類を挙げ実例を示したもので『間違のこと』と題する随想である。(以下は写真図でご覧ください)ー四次元よりー
恩田氏の東京書籍から出版されている「宮澤賢治論」には「出生説」は1巻に収められているが、「誤謬の諸相」は3巻に収められている関連からか読者に読みおとされがちであった。
誕生日に付いて石川啄木にもいろいろあった。
角川文庫新訂版「石川啄木」(上左側の写真)の 金田一京助氏の誕生日の論は採りあげられず、「石川啄木全集第八巻」年譜(岩城之徳)ように、戸籍上に届けられた日が採用されて現在は上の写真の内容のようになっている。
余談であるが「賢治研究80号」に、奥田弘氏が「佐藤隆房『宮沢賢治』によれば」とある「70・10五版」は、すでに26年三月一日(合資会社冨山房発行)〈おそら4版〉に出版がなされていた。この〈4版〉本の発行日は、昭和26年3月1日で、年譜清六編で、出生日が8月27日と記されている。小倉さんが8月27日説を公表したのは、「昭和文学全集第十四巻宮沢賢治集が最初である」(洋々社宮沢賢治6)と記述しているが、27日誕生日を既に清六さんが決められて書かれていたのであった。
奥田氏の諸種の論も、確たる証拠の提出とは言い難い今日、賢治の誕生日も確実な証拠が無いのであるから、八月一日の戸籍上に正されたならばよかろうと思う。現在ならばたれの迷惑にも損失にもならないのであるならば、不確実にしておくよりもそろそろ啄木の年譜のように戸籍上の誕生に決められた方が良いのではと考えられる。
浜垣氏の「宮沢賢治詩の世界」は誕生日に付いて明快に記されている。コメント欄も必見である。
高村光太郎全集からではなく、随想より
「工学博士天沼俊一氏の設計した『塔の青写真』を、小倉豊文氏が送ってきた、その設計図通りに白ミカゲで造った」と森氏が記述している。さて、すでに他界している「天沼俊一博士」に頼」んだことは、どうも小倉さんの何かの勘違いであろうかと思われる。塔ができたのは事実であるが、誰でもが抱かれるであろう疑問は、見解の相違ではなく解明されないのである。それで私は以下のように思う。
「当時の石造美術の学問的権威者」であるなら、天沼博士を師としてつかえ教えを受けた川勝政太郎博士ではなかろうか。 天沼俊一氏には「石磴篭」の研究はあるが、日本建築・日本古建築史家のエキスパートで知られた人物であるが、「石造美術の学問的権威者」であるならば、川勝政太郎博士であろう。「石造美術」の名を余に初めて公表されたのも川勝博士である。図面コピー(青焼き図面であろう)の策制は、おそらく当時の史迹美術同攻会の何方か(たとえば中西亨氏)であろうかと推測される。
川勝政太郎著「石造美術」昭和十四年二月十一日発行 スズカケ出版部 (会誌「史迹と美術」も最初は同所から出ている)新版「石造美術」は(株)誠文堂新光社 昭和五十六年十一月十五日発行
小倉さんの著書に「広島県古美術巡礼」や「山陽文化財散歩」がある。会誌「史迹と美術」は先月で八百五十号をこえているが、とくに関西方面での購読者会員が多く、このことは小倉さんもご存じであった。昭和三十年頃「瀬戸内海地域における地域社会と神社祭祀」のテーマ研究で、文部省科学研究費申請等々で多忙であったようである。だから間違えたのでもないであろうが森荘已池氏の論考が気になるところである。諸氏の見解・ご教授を乞う。 こんなことは宮沢家が青図面等を発表すればすべてが解決するのであるが。
賢治墓所の五輪塔由来考雑感 (前回の続き)
小倉さんの記述に「ところが昭和二十五~六年ころだったと思う。訪れた私に、翁は『賢治の墓を作ろうと思いますが・・・・・』と話しかけて来た。」とあり、墓を作るならば設計図を送ると約束をして「そして帰ってから、懇意にしていた当時の石造美術の学問的権威者天沼俊一博士に頼み、鎌倉時代様式の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した。」とある。ところで昭和25・6年頃には「宮沢賢治の詩の世界」の浜垣氏も指摘しているが、天沼俊一は昭和二十二年には他界している。 如何してこんな謎がうまれたのだろう。この事に付いは私は小倉さんに聞く勇気がなかった。
はなしは変わるが 「宮澤賢治と法華経」森荘已池の「賢治と法華経の関係」には以下のようでようである。(39~43頁)
真ん中の写真図の最後の二行に「五輪の塔は、その方の権威、工学博士天沼俊一氏の設計した塔の青写真を、賢治研究家、広島の小倉豊文氏が送ってきた。その設計通りに造った。」と見られる。小倉さんの文章と森氏の上記の内容が一致している天沼俊一氏、浜垣氏も疑問視しているが小生にも大いなる謎である。次回は川勝政太郎氏の五輪塔にふれたい。
(間違い語句一部訂正しました 言う⇒思う等)
いつだったか小倉さんとお会いしたときである。川勝政太郎さんの話におよんだ。「なんでお前は川勝をを知っているんだ」と言われた。
「日本石仏協会」の総会に花巻から島二郎さんが出て来られた時には、会場がわたくしの住まいに近かったこともあり会の後によく連絡がありイッパイやった。ある時などは窪徳忠の日本学術振興会「庚申信仰の研究」などの話におよんだ。その影響もあってかわたくしのところには川勝政太郎の「石造美術入門」や「日本石造美術辞典」があった(川勝政太郎の著書はそれ以前からだったかも知れないが)。川勝さんのことや「史迹と芸術」にも話が及んだことがあった事を小倉さんとお話をした。その後の話に付いてどんなことを話たかは忘れたが、或る時の「賢治研究会」の会場で、小倉さんが「新修・全集」の「イーハトヴ通信第五巻月報8」=イーハトヴ地理8=に五輪峠高原の五輪塔にふれて、「花巻市の身照寺にある宮沢賢治の墓は、この五輪の塔をうつしたものであるという」この記事にえらく立腹して抗議をされた事があった。小倉さんは「四次元」創刊号と8号9号とに「五輪峠」の論考があり、また五輪塔にも大変想いを寄せていた方だったとわたしは思う。
話の前置きはこのくらいにして、賢治墓所の五輪塔由来考私感に移ろう。早速本題に入るのですが、まずこの「賢治墓所五輪塔」に付いての最初の出薯記事は、普通社発行の「宮澤賢治と法華経」(昭和三十五年二月十二日発行)の『森荘已池 賢治と法華経の関係』(41頁)である。それ以前の記事は佐藤寛さんの「四次元」の何処にも記されていない。その後の記事は管見では洋々社発行昭和五十七年六月十五日「宮沢賢治第2号」に、小倉さんの「二つのブラック・ボックスー賢治とその父の宗教信仰」の後半である。以下のように書かれている。
賢治ばかりでなく、父政次郎翁の宗教信仰についても私には解けぬ謎がある。真宗安浄寺の宮沢家の代々墓のなかに賢治も納骨されていたこと、父が賢治の墓を別につくらなかった「えらさ」を私が感じ入ったことは前述したところである。ところが昭和二十五~六年ころだったと思う。訪れた私に、翁は「賢治の墓を作ろうと思いますが・・・・・」と話しかけて来た。私はその十年ほど前に前述した「別に墓を作らぬ」といった、翁の言葉を思い出したが、既に眼と足が不自由になっていた喜寿の老翁に対して前言に違うと詰問する勇気が出ず、もし作るなら墓碑銘を刻んだ普通の墓ではなく、ニ十回記念の供養塔として、賢治が好んでいたらしい五輪峠にもちなんで、無名の五輪塔にしたらよかろうという意味を述べ、もしそうするなら設計図の適当なものを送ると約したのである。そして帰ってから、懇意にしていた当時の石造美術の学問的権威者天沼俊一博士に頼み、鎌倉時代様式の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した。鎌倉時代が石造美術の黄金期であり、五輪塔はこの時代の代用的造形でもあったからである。
ところが数年後に訪問すると、その五輪塔が完成したとのこと。清六氏に案内されると、そこは安浄寺ではなく、前述した南部日実上人の縁で出来た身延山系法華の説教所が寺になった、賢治が勤めていた花巻農学校の後身の花巻農業高等学校(現在は飛行場近くに移転改築されて、跡地は公会堂や公園になっている)近くの身照寺の墓地であった。前に見た安浄寺の墓地にあった宮澤家の代々墓に隣接して、私が送った設計図通りの五輪石塔が建っており、石塔は無銘だったが、その背後に高い大きな木柱が建てられ、それには「宮沢賢治の墓」という文字が見られたのである。私は内心唖然ととしたまましばらく無言でいると、清六氏は昭和二十七年に父も含めて宮沢家は日蓮宗に改宗し、五輪塔建立と共に宮沢家の安浄寺の墓を移した次第を物語ってくれた。私も関与していた筑摩書房版第一回の賢治の全集の最後の第十一巻の出たのが昭和三十二年二月二十七日であったが、建塔・移墓はそのころのことであった。 つづく
こんにやくの
す枯れの茎をとらんとて
水こぼこぼと鳴る
ひぐれまぢかの笹はらを
兄弟二人わけ行きにけり
文語詩 未定稿 [こんにやくの] より
「校異」によると、「冬のスケッチ」第ニ四葉の章に手入れしたものであると言う。
小野隆祥さんと佐藤勝治さんが「冬のスケッチ」関連に付いて、ご両人の考えが異なったときだと思うのだが、どう云うわけかわたくしが小野さんからコンニャクに付いての問い合わせのお手紙を貰ったことがある。トシさんが入院したことがある東大分院の古い建物の一部(南東裏・病棟?)の写真と、その斜め前庭に生えていた大木の写真とを送った時だったと思う。
わたしは花巻で「こんにゃく」を食した事はあったが、蒟蒻の生えている実物は見た事が無かった。たぶん当時岩手では蒟蒻は栽培も野生もなかったと思う。東京に住むようになって群馬県の下仁田や埼玉県の秩父地方に出かけたときに、あの異様な茎の「こんにゃく」を初めて見た。ところで賢治の行動先で「水こぼこぼと鳴る 笹」があるところとはいったい何処だったのだろうかと考えたことがあった。
「まむしぐさ」も「天南星テンナンショウ」も「こんにゃく」に何処となく似ている。どちらも「里芋科」であるからであろう。子供の頃、我が家の東南端崖ふちの上の所に、「まむしぐさ」が数株植えてあった。ねんざなどをしたときにその茎?を擦って貼り付けるのだと祖母に教わった。この茎は蛇より気持ちが悪いと思ったものである。木村陽二郎監修「図説草木名彙辞典」(柏書房発行)によると「まむしぐさ」も「てんなんしょう」も蛇蒟蒻の別称と記されている。わたしは、賢治はこのどちらかを「こんにやく」と詠んだのかと考えていた。
あるとき清六さんにこの文語詩の[こんにやく]について伺ったら、「これはフィクションでしょう」とのことだった。小野さんとの手紙のやり取りから随分時日が経ってからのことであった。
わたくしは哲学も禅も解らないが、「蒟蒻道」なる語句を最近あるところで拝読したので蒟蒻問答ならぬこんにゃくについての思い出でのメモである。
推論
推論というものは、既知の事実を考察することによって、未知の事実を発見することを目的としている。したがって、推論は、真なる前提から出発して真なる結論に到達するかぎり、よい推論である。要するに、推論の妥当性の問題は、まったく事実にかんする問題であり、たんなる思考にかんする問題ではない。 パース 上山春平訳