小野寺博士の「肥料学書」を取り上げましたら、
「『新 宮澤賢治語彙辞典』に小野寺伊勢之助が載っていないが賢治とどんな関係か」を問われた。
「校本 宮沢賢治全集 第十四巻 年譜」 671頁 五月十六日(土)及び五月二十日(水)に以下のように掲載されている。
「稲作への石灰追肥に関する資料を集め、一、二日中にそのパンフレット原稿を作り高農の小野寺伊勢之助博士の意見をきき、・・・・・」
「(五月二三日の手紙(書簡349)で広告原稿を書き送っていることから、その前に小野寺博士、県農務課を訪うたと思われる」 とある。
書簡
352 [ 五月三十日 ] 「・・・ 次で小野寺博士(肥料学教授)に色々伺い候へ共・・・・」
409 三月十三日 「四、 小野寺博士肥料学教科書へ工場の写真一頁入りしもの出来致し候。」
473 [ 五月一日 ] 「次に高農の方は一昨年農芸化学科小野寺伊勢之助博士に一俵を寄贈して生徒卒業論文の資料として実験を乞ひたるものに有之候間若し右成績を求めらるゝならば可成は御出校の上実験の労を謝せられ工場の模様など細かにお話下され更に若し結果発表を得べきやを叮重に求められ度御座候 小生も右成績は甚鶴首して待ち居り候へ共何分にも手紙にては先輩へ色々手数を掛けし上余りに失礼と存じ切に病癒ゆrうを待ち居たるに御座候。」
以上は、全て鈴木東蔵あて書簡です。
小野寺伊勢之助は、(明冶二一・二・二四~昭和二八・九・二一)。
西磐井郡中里村(現一関市)出身。
一関中学校・盛岡高等農林学校農学科・同研究科(農芸化学)卒業。(高農では賢治の六年先輩)
大正十四年より盛岡高等農林学校で教鞭をされている。
昭和六年農学博士となる。
「石灰」等に付いては「語彙辞典」に詳しい。そちらを参照されたい。