何処かにあるはずだが見当たらないので、近所の図書館で借りてきた。久々に読みかえしてみた。無告の民・ものいわぬ農民ー我と汝も読む。
ジョン・ボールの夢読み始める。
僧侶の知人と京都へ。足が痛いがなんとかなるか。
(Sさんへ)
何処かにあるはずだが見当たらないので、近所の図書館で借りてきた。久々に読みかえしてみた。無告の民・ものいわぬ農民ー我と汝も読む。
ジョン・ボールの夢読み始める。
僧侶の知人と京都へ。足が痛いがなんとかなるか。
(Sさんへ)
別当と九月十九日について
かねた一郎さま 九月十九日
あなたは、ごきげんよろしいほで、けつこうです
これは、「どんぐりと山猫」の「をかしなはがき」の書き出しの文です。
この話はだいぶ昔の事ですから、失礼ですが実名で書きますのでお許しを願うと致します。
小学校三年のときの先生が、鳥谷ケ崎神社の神主稲田先生であった。
悪戯盛りの私どもは、「稲田ベットー」「稲田別当」と呼んで、学校中で一番怖い先生として恐れていた。あるときなどは、両手で両耳を摑んで持ち上げられてゴツンゴツン頭を柱にやられるような生徒もいた。稲田先生は仕事の関係で休む事の多いせいでもあり、私どもは新人で女の八木先生にも教わっていた。八木先生が告げ口をしたせいでは無いであろうが、別当先生休みの翌日にはに廊下に生徒を立せる事があった。
花巻例大祭には、別当先生 祭りの先頭を鳥帽子を被って馬で通る。光った頭から鳥帽子がとばないように紐が顔にくい込んでいたのが忘れられない。無論稲田別当先生は、童話に出てくるような「醜悪な容貌」でもなく、「気味の悪い」ところなど一つも無い、立派な先生であった。ただ、悪餓鬼の私どもが、学校での別当先生と馬上の別当さんが、面白いほどに乖離していたのが思い出される。賢治先生はこんな事は知らない筈であると思うが、今となっては懐かしい思い出だ。
次に 米村みゆき氏が「宮澤賢治を創った男たち」で、『「十九日ばか」の暗号』を解明しておられた。「注文の多い料理店」のタイトル日付と、「どんぐりの山猫」のなかの別当が一郎に出したはがきの九月十九日の解明は、さすがであると感心した。ここからは小生の蛇足である。
別当と九月十九日との関連は、無理やりに付けなくても良いのだが、花巻大祭の最終日は九月十九日で最も賑やかであった。これ等については又のきかいに触れよう。
「啄木と賢治の酒」の著者 藤原隆男・松田十刻両氏は、岩手県出身なそうです。
藤原氏は岩大出身・農学博士で、酒造業史の専門家とあります。
[ (株)熊谷印刷出版部 価格1800円。(平成16年)]
「酒というユニークな切り口から、啄木と賢治の作品や足跡をひもとき、
二人の酒観や人物像を浮き彫りにする。心地よく啄木と賢治の世界に酔いしれる」
「酒にまつわる探求がわかりやすい本」と本の帯に記されています。
啄木についての「酒観」では、小生の知らない事ばかりで、大変楽しく読ませてもらった。
ここでは賢治に関連して、少しきになったことを述べて、いくつかご教示をお願いしたいと思います。
賢治の「酒観」(飲酒観)については著者に同感です。
箱根での縄暖簾を潜り「モッキリ酒」の事や、
菅原源太郎氏からの聞いた話に
「人とのつき合いでは少量の酒も召し上がったし、タバコも少しは喫(の)みました。」と
ありますように、全くのゲコでは無かったようです。
さて、この本の目次にも在ります「花巻『精養軒』でのもてなし」のところに
「花巻駅の上には精養軒支店があった。賢治はこの『精養軒』を会場に、
藤原喜藤治(県立花巻女学校の音楽教師)らと一緒に、主として花巻の若者を
対象にしたレコード・コンサートを開いた。(258頁)
と記されています。
花巻駅の上に「精養軒支店」があって「レコード・コンサート」行なった話は、
私は初めて知りました。「花巻駅の上」とは駅舎にあったのか、花巻電鉄のほうにあったのか、
それとも、駅よりも「高い所」(?)にあったのか是非知りたいところです。
中小路の「精養軒」は、大正屋の北側にあり、石創りで戦後も在ったのは知っていますが、
「レコード・コンサート」が出来る「精養軒支店」。ご存知の方はお教え下さい。
次に「税務署長の冒険」と「藤根禁酒会へ贈る」に付いてですが、
私は真壁仁氏が「東北農民濁酒密造記」で詳しく取上げている「猫ノ澤事件」についてや、
『大正6年8月に「何警察署・何税務署」 ○濁酒を創ることなかれ○』 のビラの張出しの話は、
岩手県内でも広く行渡っていた。藤根へ行った賢治は、このビラを読んだのであろう。
村単位での密造もあり、逮捕者数や犯則件数等も、この頃に事情を真壁氏は書かれています。
『「藤根禁酒会へ贈る」が語るもの』について、以下のような 「和賀町史」に掲載されている事情もあった。
独りでのみ、みんなでのむ
ここで酒、というのは「濁酒」のことである。和賀町の人たちはまことにあきれかいるばかりの
大酒豪たちをかかえていたように思われる。のむ、というより、あびる、といった方がよいような
人がいた。うれしいといってはのみ、悲しいとといってはのむ。客が来たといってはのみ、
何人か集まるとのむ。濁酒の出来具合がよいといってはのむ。毎日三食ごとにのみ、
宴会があるとのむ。酒に明け、酒に暮れている感があるほど飲んでいたようである。
これほど愛飲されていた濁酒がいつごろから当町でもこのように大量に造られるように
なったかは判然としない。(以下略)573頁
「男は酒煙草・女は湯治」と題された、藤根地区の生活文化の一頁として記されています。
ちょっと横道に逸れましたが、「杉山農法」については梅木氏の論がありますし、
取上げて述べることも無いのですが、次に281ページに
賢治はまさに昭和二年九月十六日早朝に花巻の羅須地人協会を出て、杉山農法によつて
栽培された稲の出来具合をみるために岩崎村へ向かった。
詩の内容から判断すれば、賢治は鉄道を利用して藤根駅に降り立ち、
岩崎村まで歩いたと考えられる。 とあります。
私は、藤根へは歩いて行かれたと思います。横黒線を利用するのは列車待ちや、桜から
花巻駅までの歩く距離等から考えると、どうでしょう。時間的に無駄が多すぎます。
それに「春と修羅 第三集 1021 [ 甲助 今朝まだくらぁに ] 」にを視ても、当時としては
歩いたと推測出きると思われます。この詩の「甲助」は地人協会隣の「忠一」さんです。
私は濁酒(どぶろく)密造擁護論者ではありませんが、密造についての実状を、
販売目的で大々的に関わった事件と、農民のささやかな楽しみで濁酒(どぶろく)を
造っていた事に触れました。真壁氏の論考にもありましたが、許可を得ずに酒つくりを
することは法律に違反していることには変わりありません。ただ
『「葡萄水」や「毒もみのすきな署長さん」などとともに郷土の生活の一端に目を向けた作品』と
解したいのです。「税務署長の冒険」の作品末尾の名誉村長の言葉は、作者賢治の
人間観の一端を示す、従来からの解釈に賛成をするものです。
「戦前は何処の農家でも、『密造』は遣っていた」と記したことがある。
大正時代の密造酒犯則件数は、全国で岩手県が秋田県に次ぐ二番目であった。
最近出た本の「啄木と賢治の酒」や、真壁仁氏の「東北農民濁酒蜜造記」には、
農家では、季節的に「密造酒」造りは、何時ごろに行ったかについては記されていない。
この事のについていくつかを思い出してみた。
商売としての密造酒つくりの大掛かりな事は別として、
一般農家では春の田植え前で、味噌を仕込む時期が多かった。
何処の農家でも味噌造りには、麹で甘酒をつくって、樽に仕込むのである。
この時期の前が最も多かったと思う。
花巻税務署の密造酒狩りは天下に知れ渡っていたが、「隠す」スリルと、
「自分で作った米で、如何様に作り変えても人様に迷惑をかける訳ではない」と言ふ
そんな思いがあったと見られる。
「火ノ見櫓」向い側前に村の共同作業所があつて、そこには大豆ニ斗程も、
一度に煮炊きできる大釜があり、順番待ちで使用していた。
煮た大豆は、臼で搗き(後にはミンチ機ができた)、子供の顔位の味噌だま(円錐形)に造り、
少し乾いたら、それを藁で十字に縛り日陰干しに吊るし、ひび割れして少しのカビが出来たら、
甘酒を混ぜながら臼で搗き、樽に塩を混ぜて仕込むのである。
何処の農家でも味噌小屋があり、三年味噌は普通であった。麹の匂いと、
熟成された味噌の香り所は、税務署のいの一番に除き見られた場所でもあった。
子供心に濁酒(どぶろく)造りは、節句等には何処の家でも少しは造っていたように思う。
麹は何時でも何処の家でも買う事が出来た。
酒菌はこの地区は南部杜氏の本場である。(種母菌は発酵させないうちは隠しやすい)
水瓶のような大きな瓶ではなく、ニ・三リットルの瓶に、甘酒と同時に造り、「スツパクなった甘酒」に
見立てるようにしていた。油紙に包み、馬小屋や「ごんど」に隠しておくのである。
見つかると大変な罰金である。絶対見つかってはならないのである。
賢治と酒については、何れ記したい。