ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

飛田三郎と「宮澤賢治」

2013年03月31日 | 随想・日記

   3月25日に「賢治の花園」をとりあげた。

 この「賢治の花園」で、著者進氏は、飛田三郎とのことを以下のように書かれている。

 

飛田三郎さんという方が書生として付けてもらっていた。

父はその方に口述して原稿を書かせ、昭和十七年九月に出版したのが「宮沢賢治」でした。

これが賢治の生涯を伝える最初の書籍だ。と記されている。(90頁の要約)

 

 「『宮沢賢治』序」には、昭和十四年二月脱稿して以来、再考と補遺とに日お送り、今日出版の日に会うことになりました。と 隆房が書いている。

 さて、ここでは飛田がライターであったかどうかである。

飛田は「宮沢賢治研究 1号(編集発行人村井勉1948・3)に、「思い出 1」の冒頭に以下のように書かれている。

  引揚列車とは名のみのこと。乏しい乍、必死と守り通した各自の荷物の間々に、定員以上に押し重なり。必要もない一つ一つの駅の空停車。その間に盛んな闇商人の割込み。等々、折角帰って来た内地に愛想が尽きかけながら、体力の脱落も著しかった。上野駅では、またしても普通の旅客と競争で、ホームを走りつゝ列車に乗った。そして暫く迫る寒さに、身をちゞかめながら一関の近くに来るまで、私は花巻の炎上を知らないでいたのだった。(事実はこの戦火の前日には父は死んでいた。それさいも知らずに私はいた。) 四月も近かろうとして凍みついている様な天象。薄明のうちに、しかも心なしか花巻の町は、甚だ不気嬾に、我等の一家を路傍に立たせた。

 また後半には、

 帰り着いた日、終日をねむり暮らして、次の日変わった町並を十年振りで私は宮澤さんに御伺いした。

とある。

 飛田は引き上げまでの十年近くは内地に居られなかった。そして飛田は、「旭ノ又小学校」に昭和二十三年から二十八年まで先生をされていた。

 昭和十四年ごろには、飛田は花巻にいなかった。なぜか進氏は虚言ともとれるような事を「賢治の花園」に記されたのか。

 それではいったいライターは誰であったのか。

  つづく

 


『宮澤賢治』ゴーストライター

2013年03月26日 | 随想・日記

         

佐藤隆房著『宮澤賢治』は、御子息進氏により「口述」は明らかになったが、初版の「序」に「昭和十四年二月脱稿」(6行目)とある。飛田についての疑問はいくつか考えられもするが、ここではゴーストライターは誰であったのかである。冨山房の市村宏氏が「『宮沢賢治』のできた頃」と題して29年近くも経過してからであるが、『宮澤賢治』昭和四十五年九月十五日第五版印刷に記されている。そのなかで注目されるのは、草稿を携えて訪問されたのは加茂儀一氏だと云う。加茂とのつながりのある人物とは誰か。そして初版の「後記」は、以後なぜか消されていた。

    

つづく


『宮澤賢治』のゴーストライター

2013年03月25日 | 随想・日記

   

           

     佐藤進著「賢治の花園」(地方公論社刊)に以下のように書かれています。

          父の冨山房版『宮沢賢治』

  私は幼少の頃、病弱でしたので、運動をさせるために書生さんを付けてくれました。飛田三郎さんという方でした。父はその方に口述して原稿を書かせておりました。それが昭和十七年九月に東京の冨山房から出版された『宮沢賢治』です。これは賢治さんの生涯を伝える最初の書籍となりました。90頁(以下略) 

 飛田は「宮沢賢治の読んだ本ー所蔵図書目録ー」の筆写稿と、文哺堂版『宮澤賢治全集』(昭9・10~10・9)刊行時の原稿浄書写をされた方であるが、宮澤家及び花巻に何時から何時まで居られたかについて、最近「みちのくの山野草」で、以下のように記されている。以下コピーでご覧いただくことにしたい。

・ 
《飛田三郎の略年譜》 
・明治42年生まれ。
・明治屋(関登久也の店)に勤める前は兵役に服していた。
・除隊になってからは明治屋に勤めていた。
・賢治没後にその遺稿の浄書等をした。
・「宮沢賢治蔵書目録」を作成(S9.10頃~S10.9頃までか)。
・昭和11?年4月 外川目の旭ノ又(ひのまた)小学校勤務。
・昭和11年5月1日、飛田自身編輯の『歌と随筆』(賢治の『圖書館幻想』掲載)を発行。
・昭和14年 台湾へ。7年間行っていた。
・昭和21年 花巻に戻り、その後再び小学校の先生になった。
・昭和22?年 大槌小学校着任。
・昭和23年3月『宮澤賢治研究1』に「思ひ出1」掲載。
・昭和 ?年 九戸葛巻町立小屋瀬小学校へ移動。
・山口小学校勤務(S27.4~S32.3の5年間)。
・矢沢小学校勤務(S32.4~S39.3の7年間)。
・寶閑小学校教頭(S39.4~S40.3の1年間)、退職。
・昭和44年8月『宮澤賢治全集別巻』に「肥料設計と羅須地人協會」掲載。  3039飛田三郎について(補足
 
ご覧のように昭和11年ころから十四年ころには「旭ノ又」小学校に奉職されてたようであるが、この「旭ノ又」小学校に勤めていたとしたなら、花巻の佐藤家へどのような交通手段で通われたのか疑問である。小山田くらいまでなら通えるが、外川目ではとても無理である。何れにしろどちらかが訂正される事であろう。
 
 
つづく
 

佐藤隆房著「宮沢賢治」

2013年03月18日 | 随想・日記

    

 米村みゆき著「宮沢賢治を作った男たち」には、佐藤隆房著「宮沢賢治」が取り上げられていない。賢治を作った著書としてはトップに挙げられていなければならない重要かくべかからざる本であったのにと思った。

 さて、表題のこの著はゴーストライター説が以前から聞かれた著である。

 ブログ 「みちのくの山野草」に、あるときゴーストラー説が書かれておられたので、ご本人にお聞きしたことがある。

  なにか資料でもとお聞きしましたなら、菊池忠ニさんからからお聞きしたとの事でした。

菊池氏は佐藤勝治さんから聞かれたとの事である。

 勝治さんは「山荘の高村光太郎」でもそうですが、ご自分に不利であってもまず、他人の拙事は書かないように心掛けられていた方であった。勝治さんは、噂ではなく何か確たる事実を知っていたのか、今では聞きようもない。

 話がそれるが、勝治さんは「山荘の高村光太郎」にも、また他の処でも佐藤隆房の名をかたられない。また、光太郎を山口へ行かれる当時の事が書かれている佐藤進著「賢治の花園」にも、行先である勝治さんを一言も書かれていない。勝治さんも、隆房親子も、お互いに嫌ったように一言もかかれない。「おもいで 光太郎 記念集」没後30回記念で、やっとおしまいから8番目程度に勝治さんがみられた。勝治さんを外すことはできなかったのである。

 さて本題であるが、昭和十七年に冨山房から出版された「宮澤賢治」であるが、ゴーストライター説が最近少しあきらかになってきた。

 

    つづく


勝治さんと光太郎「雨ニモマケズの碑」

2013年03月18日 | 随想・日記

 勝治さんの「山荘の高村光太郎」に、「雨ニモマケズの碑」と題されて記されている処があります。勝治さんの ものの見方 考え方と、情緒あふれる人柄がでている文でわたくしは好きです。以下ご紹介したい。

   雨ニモマケズの碑

 花巻にある宮沢賢治の雨ニモマケズの碑は本文の傍のところどころに、後からの書入れがあって、ちよっと人にふしぎな感じをあたえます。石碑に後から書き入れられ(彫り入れ)があるのはずいぶんめずらしいことでしょう。

 それはこういう事情です。

 ある時私が先生に、桜(碑のある場所)の詩碑は、どうして詩の後半だけを、それも原文とは少し変えて彫りこんだのでしょうかとおききしました。

 先生は例のぎょとした表情をなさいました。

 「あれは違うんですか」

 全く意外だというように答えられました。

 「僕は花巻の宮沢さんから送ってきた通りを書いたですよ。

 僕も詩のはんぶんだけではおかしいと思って、その事はきいてみたのですが、余り長いから前半を略したので、そのまま書いたのです。 

 どこか違うんですか」 

 そこで私は、原文を口誦しながら、碑との違いを説明しました。先生は全く初耳だ、それはどうにかしなければならないと言われます。

「大体詩をなおすなどということはけしからぬ事です。何のまちがいだろう」

 先生は憤然となさいました。

「花巻に行ってきいてみましょう」

 先生はこのことのためにわざわざ花巻へ出かけられたと思います。

 あの、省いた「松ノ」と「ソノ」という文字はあまりたびたび重なるので、宮沢清六氏の提案で、原文から取ることを関係者たちが決め、それを先生に送ったのだそうであります。

 この事は余程先生は気になったものとみえて、間もなく、碑に書き入れをして来ましたよと言って、花巻から帰って来られたことがありました。

 だから桜の詩碑は、世界でもめずらしい書入れがあるのであります。 (146~148頁)

 

 雨ニモマケズの「ひでり」問題に関連して、何時かは「釈明」文を私も書かなければ。照井謹ニ郎氏を東京の研究会で話をしさせた人間として。