3月25日に「賢治の花園」をとりあげた。
この「賢治の花園」で、著者進氏は、飛田三郎とのことを以下のように書かれている。
飛田三郎さんという方が書生として付けてもらっていた。
父はその方に口述して原稿を書かせ、昭和十七年九月に出版したのが「宮沢賢治」でした。
これが賢治の生涯を伝える最初の書籍だ。と記されている。(90頁の要約)
「『宮沢賢治』序」には、昭和十四年二月脱稿して以来、再考と補遺とに日お送り、今日出版の日に会うことになりました。と 隆房が書いている。
さて、ここでは飛田がライターであったかどうかである。
飛田は「宮沢賢治研究 1号(編集発行人村井勉1948・3)に、「思い出 1」の冒頭に以下のように書かれている。
引揚列車とは名のみのこと。乏しい乍、必死と守り通した各自の荷物の間々に、定員以上に押し重なり。必要もない一つ一つの駅の空停車。その間に盛んな闇商人の割込み。等々、折角帰って来た内地に愛想が尽きかけながら、体力の脱落も著しかった。上野駅では、またしても普通の旅客と競争で、ホームを走りつゝ列車に乗った。そして暫く迫る寒さに、身をちゞかめながら一関の近くに来るまで、私は花巻の炎上を知らないでいたのだった。(事実はこの戦火の前日には父は死んでいた。それさいも知らずに私はいた。) 四月も近かろうとして凍みついている様な天象。薄明のうちに、しかも心なしか花巻の町は、甚だ不気嬾に、我等の一家を路傍に立たせた。
また後半には、
帰り着いた日、終日をねむり暮らして、次の日変わった町並を十年振りで私は宮澤さんに御伺いした。
とある。
飛田は引き上げまでの十年近くは内地に居られなかった。そして飛田は、「旭ノ又小学校」に昭和二十三年から二十八年まで先生をされていた。
昭和十四年ごろには、飛田は花巻にいなかった。なぜか進氏は虚言ともとれるような事を「賢治の花園」に記されたのか。
それではいったいライターは誰であったのか。
つづく