ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

「石造美術」の権威者

2015年04月22日 | 随想・日記

 

 「工学博士天沼俊一氏の設計した『塔の青写真』を、小倉豊文氏が送ってきた、その設計図通りに白ミカゲで造った」と森氏が記述している。さて、すでに他界している「天沼俊一博士」に頼」んだことは、どうも小倉さんの何かの勘違いであろうかと思われる。塔ができたのは事実であるが、誰でもが抱かれるであろう疑問は、見解の相違ではなく解明されないのである。それで私は以下のように思う。

 「当時の石造美術の学問的権威者」であるなら、天沼博士を師としてつかえ教えを受けた川勝政太郎博士ではなかろうか。 天沼俊一氏には「石磴篭」の研究はあるが、日本建築・日本古建築史家のエキスパートで知られた人物であるが、「石造美術の学問的権威者」であるならば、川勝政太郎博士であろう。「石造美術」の名を余に初めて公表されたのも川勝博士である。図面コピー(青焼き図面であろう)の策制は、おそらく当時の史迹美術同攻会の何方か(たとえば中西亨氏)であろうかと推測される。

      

 川勝政太郎著「石造美術」昭和十四年二月十一日発行 スズカケ出版部 (会誌「史迹と美術」も最初は同所から出ている)新版「石造美術」は(株)誠文堂新光社 昭和五十六年十一月十五日発行

    

 小倉さんの著書に「広島県古美術巡礼」や「山陽文化財散歩」がある。会誌「史迹と美術」は先月で八百五十号をこえているが、とくに関西方面での購読者会員が多く、このことは小倉さんもご存じであった。昭和三十年頃「瀬戸内海地域における地域社会と神社祭祀」のテーマ研究で、文部省科学研究費申請等々で多忙であったようである。だから間違えたのでもないであろうが森荘已池氏の論考が気になるところである。諸氏の見解・ご教授を乞う。 こんなことは宮沢家が青図面等を発表すればすべてが解決するのであるが。

 

  

 


賢治墓所「五輪塔」設計図の謎

2015年04月21日 | 随想・日記

          

        賢治墓所の五輪塔由来考雑感  (前回の続き)

 小倉さんの記述に「ところが昭和二十五~六年ころだったと思う。訪れた私に、翁は『賢治の墓を作ろうと思いますが・・・・・』と話しかけて来た。」とあり、墓を作るならば設計図を送ると約束をして「そして帰ってから、懇意にしていた当時の石造美術の学問的権威者天沼俊一博士に頼み、鎌倉時代様式の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した。」とある。ところで昭和25・6年頃には「宮沢賢治の詩の世界」の浜垣氏も指摘しているが、天沼俊一は昭和二十二年には他界している。 如何してこんな謎がうまれたのだろう。この事に付いは私は小倉さんに聞く勇気がなかった。

 はなしは変わるが 「宮澤賢治と法華経」森荘已池の「賢治と法華経の関係」には以下のようでようである。(39~43頁)

      

真ん中の写真図の最後の二行に「五輪の塔は、その方の権威、工学博士天沼俊一氏の設計した塔の青写真を、賢治研究家、広島の小倉豊文氏が送ってきた。その設計通りに造った。」と見られる。小倉さんの文章と森氏の上記の内容が一致している天沼俊一氏、浜垣氏も疑問視しているが小生にも大いなる謎である。次回は川勝政太郎氏の五輪塔にふれたい。

              (間違い語句一部訂正しました  言う⇒思う等)


宮澤賢治墓所「五輪塔」随想

2015年04月19日 | 随想・日記

                       

  いつだったか小倉さんとお会いしたときである。川勝政太郎さんの話におよんだ。「なんでお前は川勝をを知っているんだ」と言われた。

 「日本石仏協会」の総会に花巻から島二郎さんが出て来られた時には、会場がわたくしの住まいに近かったこともあり会の後によく連絡がありイッパイやった。ある時などは窪徳忠の日本学術振興会「庚申信仰の研究」などの話におよんだ。その影響もあってかわたくしのところには川勝政太郎の「石造美術入門」や「日本石造美術辞典」があった(川勝政太郎の著書はそれ以前からだったかも知れないが)。川勝さんのことや「史迹と芸術」にも話が及んだことがあった事を小倉さんとお話をした。その後の話に付いてどんなことを話たかは忘れたが、或る時の「賢治研究会」の会場で、小倉さんが「新修・全集」の「イーハトヴ通信第五巻月報8」=イーハトヴ地理8=に五輪峠高原の五輪塔にふれて、「花巻市の身照寺にある宮沢賢治の墓は、この五輪の塔をうつしたものであるという」この記事にえらく立腹して抗議をされた事があった。小倉さんは「四次元」創刊号と8号9号とに「五輪峠」の論考があり、また五輪塔にも大変想いを寄せていた方だったとわたしは思う。

 話の前置きはこのくらいにして、賢治墓所の五輪塔由来考私感に移ろう。早速本題に入るのですが、まずこの「賢治墓所五輪塔」に付いての最初の出薯記事は、普通社発行の「宮澤賢治と法華経」(昭和三十五年二月十二日発行)の『森荘已池 賢治と法華経の関係』(41頁)である。それ以前の記事は佐藤寛さんの「四次元」の何処にも記されていない。その後の記事は管見では洋々社発行昭和五十七年六月十五日「宮沢賢治第2号」に、小倉さんの「二つのブラック・ボックスー賢治とその父の宗教信仰」の後半である。以下のように書かれている。

 賢治ばかりでなく、父政次郎翁の宗教信仰についても私には解けぬ謎がある。真宗安浄寺の宮沢家の代々墓のなかに賢治も納骨されていたこと、父が賢治の墓を別につくらなかった「えらさ」を私が感じ入ったことは前述したところである。ところが昭和二十五~六年ころだったと思う。訪れた私に、翁は「賢治の墓を作ろうと思いますが・・・・・」と話しかけて来た。私はその十年ほど前に前述した「別に墓を作らぬ」といった、翁の言葉を思い出したが、既に眼と足が不自由になっていた喜寿の老翁に対して前言に違うと詰問する勇気が出ず、もし作るなら墓碑銘を刻んだ普通の墓ではなく、ニ十回記念の供養塔として、賢治が好んでいたらしい五輪峠にもちなんで、無名の五輪塔にしたらよかろうという意味を述べ、もしそうするなら設計図の適当なものを送ると約したのである。そして帰ってから、懇意にしていた当時の石造美術の学問的権威者天沼俊一博士に頼み、鎌倉時代様式の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した。鎌倉時代が石造美術の黄金期であり、五輪塔はこの時代の代用的造形でもあったからである。

 ところが数年後に訪問すると、その五輪塔が完成したとのこと。清六氏に案内されると、そこは安浄寺ではなく、前述した南部日実上人の縁で出来た身延山系法華の説教所が寺になった、賢治が勤めていた花巻農学校の後身の花巻農業高等学校(現在は飛行場近くに移転改築されて、跡地は公会堂や公園になっている)近くの身照寺の墓地であった。前に見た安浄寺の墓地にあった宮澤家の代々墓に隣接して、私が送った設計図通りの五輪石塔が建っており、石塔は無銘だったが、その背後に高い大きな木柱が建てられ、それには「宮沢賢治の墓」という文字が見られたのである。私は内心唖然ととしたまましばらく無言でいると、清六氏は昭和二十七年に父も含めて宮沢家は日蓮宗に改宗し、五輪塔建立と共に宮沢家の安浄寺の墓を移した次第を物語ってくれた。私も関与していた筑摩書房版第一回の賢治の全集の最後の第十一巻の出たのが昭和三十二年二月二十七日であったが、建塔・移墓はそのころのことであった。  つづく


紛らわしい「羅須地人協会付近略図」=賢治聞書

2015年04月14日 | 地図

 『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料年譜篇』337頁に、菊池正『賢治聞書』からとして「羅須地人協会付近略図」が採りあげられている。「昭和四七年十月一日付き」と括弧内に記されているが、その後に「昭和二年当時の年齢」云々とあり、この「略図」が当時の「別荘付近略図」に間違えられやすい。

 菊池正の「賢治聞書」は以下のようなガリ版刷りであるが、詳細は大内秀明編著 「賢治とモリスの環境芸術」(有)時潮社2007年に出ているので興味がおありの方はそちらを見て戴きたい。

               

 賢治が桜で「羅須地人協会」とした昭和初期当時は以前にも紹介した。伊藤克己は父熊蔵と一緒に生活をしていたので、「賢治聞書」や「新校本」記載されている様なこれらの家はまだ無かった。またこの聞書には「先生が仂いていた畑というのは、一町歩近くもあったと思います」や「近所の人たちでさえ耕作することを好まなかったようです。」などと有るが我が家ではその近所に畑があった。伊藤与蔵が間違えたのか菊池が聞き違えたのかは分からないが、どうも聞き書きとしても誰かが書いたものにしても、よほど注意・その内容を心して読まないとゝ最近特に思う。