いつだったか小倉さんとお会いしたときである。川勝政太郎さんの話におよんだ。「なんでお前は川勝をを知っているんだ」と言われた。
「日本石仏協会」の総会に花巻から島二郎さんが出て来られた時には、会場がわたくしの住まいに近かったこともあり会の後によく連絡がありイッパイやった。ある時などは窪徳忠の日本学術振興会「庚申信仰の研究」などの話におよんだ。その影響もあってかわたくしのところには川勝政太郎の「石造美術入門」や「日本石造美術辞典」があった(川勝政太郎の著書はそれ以前からだったかも知れないが)。川勝さんのことや「史迹と芸術」にも話が及んだことがあった事を小倉さんとお話をした。その後の話に付いてどんなことを話たかは忘れたが、或る時の「賢治研究会」の会場で、小倉さんが「新修・全集」の「イーハトヴ通信第五巻月報8」=イーハトヴ地理8=に五輪峠高原の五輪塔にふれて、「花巻市の身照寺にある宮沢賢治の墓は、この五輪の塔をうつしたものであるという」この記事にえらく立腹して抗議をされた事があった。小倉さんは「四次元」創刊号と8号9号とに「五輪峠」の論考があり、また五輪塔にも大変想いを寄せていた方だったとわたしは思う。
話の前置きはこのくらいにして、賢治墓所の五輪塔由来考私感に移ろう。早速本題に入るのですが、まずこの「賢治墓所五輪塔」に付いての最初の出薯記事は、普通社発行の「宮澤賢治と法華経」(昭和三十五年二月十二日発行)の『森荘已池 賢治と法華経の関係』(41頁)である。それ以前の記事は佐藤寛さんの「四次元」の何処にも記されていない。その後の記事は管見では洋々社発行昭和五十七年六月十五日「宮沢賢治第2号」に、小倉さんの「二つのブラック・ボックスー賢治とその父の宗教信仰」の後半である。以下のように書かれている。
賢治ばかりでなく、父政次郎翁の宗教信仰についても私には解けぬ謎がある。真宗安浄寺の宮沢家の代々墓のなかに賢治も納骨されていたこと、父が賢治の墓を別につくらなかった「えらさ」を私が感じ入ったことは前述したところである。ところが昭和二十五~六年ころだったと思う。訪れた私に、翁は「賢治の墓を作ろうと思いますが・・・・・」と話しかけて来た。私はその十年ほど前に前述した「別に墓を作らぬ」といった、翁の言葉を思い出したが、既に眼と足が不自由になっていた喜寿の老翁に対して前言に違うと詰問する勇気が出ず、もし作るなら墓碑銘を刻んだ普通の墓ではなく、ニ十回記念の供養塔として、賢治が好んでいたらしい五輪峠にもちなんで、無名の五輪塔にしたらよかろうという意味を述べ、もしそうするなら設計図の適当なものを送ると約したのである。そして帰ってから、懇意にしていた当時の石造美術の学問的権威者天沼俊一博士に頼み、鎌倉時代様式の五輪塔の設計図のコピーをもらって郵送した。鎌倉時代が石造美術の黄金期であり、五輪塔はこの時代の代用的造形でもあったからである。
ところが数年後に訪問すると、その五輪塔が完成したとのこと。清六氏に案内されると、そこは安浄寺ではなく、前述した南部日実上人の縁で出来た身延山系法華の説教所が寺になった、賢治が勤めていた花巻農学校の後身の花巻農業高等学校(現在は飛行場近くに移転改築されて、跡地は公会堂や公園になっている)近くの身照寺の墓地であった。前に見た安浄寺の墓地にあった宮澤家の代々墓に隣接して、私が送った設計図通りの五輪石塔が建っており、石塔は無銘だったが、その背後に高い大きな木柱が建てられ、それには「宮沢賢治の墓」という文字が見られたのである。私は内心唖然ととしたまましばらく無言でいると、清六氏は昭和二十七年に父も含めて宮沢家は日蓮宗に改宗し、五輪塔建立と共に宮沢家の安浄寺の墓を移した次第を物語ってくれた。私も関与していた筑摩書房版第一回の賢治の全集の最後の第十一巻の出たのが昭和三十二年二月二十七日であったが、建塔・移墓はそのころのことであった。 つづく