東陽堂 古書目録 70号 平成23年〇秋号より
寺の住職 M 氏から上記「古書目録」をもらってきました。廉価になった「宮澤賢治遺言の国訳妙法蓮華経」です。
余談。何年か前に「宮澤賢治イーハトーブセンター 掲示板」に、「鶴田辰蔵あての国訳妙法蓮華経を入手したが、鶴田とはどのようなお方か」と云うような書き込みが有りました。
わたくしは「御田屋町の鶴田印刷の社長である」むねを書き込んだ記憶が有りますが、彼の弟とは、晩年親しく旅行になど良く行きましが、今は彼等はあの世です。
上記の本はいちじはずいぶん高値でしたが、学校等の図書館等で如何かと思い、此処に書き込んでしまいました。
(この古書 お買い上げなされましたお方・そっとコメントを、内緒にしておきます。
おそらくあなたは本の中毒にかかっていられるでしょう。 いずれこの記事は消去しますが。)
(写真は後日挿入・東陽堂書店外の物です)
加藤完治は、大正四年(1915)年東大農学部の推薦で、大正天皇即位の御大典事業として山形県が自冶講習所をつくった、そこの初代所長になった。農本主義的青年幹部の養成のため全国に先駆けて開設したものである。
また、その後茨城県宍戸町に、「日本国民高等学校」を創設してその校長になり、さらに開拓移民の中心的人物となっていった。列強のアジア植民地化のなかで、日本の近代化と独立を守ることを名目として、第二次世界大戦への過程の中で、国内では解決できない土地所有のありかた、小作制による貧農問題の内部矛盾をかかえたままの農村の被幣や、農民の貧困を、満蒙開拓に、そして後には満蒙青少年義勇兵とその道に進める中心的人物となっていった。農村の次三男が対象であったのである。花巻にほど近い六原農場(道場)もそのひとつであった。
大戦中の桜にあった「兵舎」には、乙種工業国民学校(正式の名前は忘れたが)が創られた。にがい思い出である。
加藤完治の実践は、賢治の理想としたフォルケ・ホイスコーレとは程遠い学校であったと思う。
最新菊の作り方 石井勇義著 誠文堂 昭和四年十一月五日 発行
わが国のほまれと云へるこの花はとつくにまでもわたり行くらん
上記は賢治作の「東北菊花品評会」の一句です。
小沢俊郎氏の「新集 宮沢賢治全集」語註によると、『東北菊花品評会 昭和六年十一月、花城小学校(一部略)で開催。花巻の菊花同好会「秋香会」主催』と解説されております。
同じ「新集」本の解説によると「句作品中心をなしているのは、昭和七年十月に花巻で開かれた菊花品評会 に寄せるために作られたといわれる(入賞花に吊るす短冊の句をたのまれたのである由)一連の作品」との事(378頁)なそうです。まあ六年でも七年でも良いのですが、こちらは直接賢治とは関係が無い本ですが、気になる本があります。
実験花卉園芸 発行所 裳華房 (写真は下巻724~725頁)
この本の「来歴」に、「日本に菊がはいってきたのは、三八五年(仁徳天皇七三)は、百済が菊種を貢納してからのことである」とされていますが、これは疑わしいのです。八世紀の万葉集には、多くの花がうたわれているが、キクについては一首もないそうです。四世紀に宮廷にキクが入ったのなら、万葉にうたわれていないはずはない。キクは奈良時代以後、平安期であろうということです。源氏物語になりますとキクはナデシコについで、多いとの事です。実験花卉園芸の書はおそらく賢治も使用されたであろうかと思われる本ですが、園芸実用書としては良書ですが、来歴については、いささか疑問な点がみられます。(この書は最近賢治研究者の論考にも引用されていました)
ところで、キクは天皇家のシンボルとなったのは、近代以後の事で、維新当時、菊は栄える葵は枯るとうたわれていた。天皇家の紋章になったのは後鳥羽上皇の1185年の事だそうですが、近代では明治二年(1869)の太政官布告でさだめられてからである。
このクリサンセマム(黄金色の花)も、昔から町民や農民に愛されてきた花ですが、わたくしは大輪の菊や菊人形のような人工的な菊ではなく、野におけるキクの花が好きです。また、農家の庭先には、どこの家にも植えられていたキクは、秋の日差しに映えて眩しいほどであった。
追記
昭和五年十月二十四日 花巻温泉主催「県下菊花品評会」審査員依頼状がきたが、病中を理由に断り、出品者として応じる。 堀尾青史 年譜 宮沢賢治伝より
※ 「校本 全集13巻」596~597頁の校異の解説参照されたい。