ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

南部アカマツ

2012年06月13日 | 随想・日記

 

 先月のある新聞に、「昨年度松くい虫被害」の報告が「県花巻農林振興センター」からとして報じられていた。前年比より「減」であったが、今年は多くなりそうだとの事である。センターでは「花巻市の胡四王山や北上市の森林公園など景観上重要な松」は守っていきたいとしていた。

 賢治の作品に、植物で一番多く出ているのは「松」である。わたくしは105位の出典かと思っていたら「宮澤賢治語彙辞典」によると、なんと「都合165か所も登場する」との事だ。 

 余りにも良く知られている羅須地人協会後地の桜の詩碑の書き出しに、最初は「野原ノ林ノ陰ノ」と彫られ、「松ノ」が抜けていたが後に補則された。この近辺は「アカマツ林」が多かったが、今は見られない。

 胡四王山山頂のあの松は、かっては花巻の何処から見ても、最っと茂って見えた。「農林振興センター」ではないが、何とかこれ以上景観を損ねさせたくないものだ。

 アカマツは、岩手の固有の針葉樹資源として、明治20年代の東北本線開通を契機に急速に伸びたとされているが、戦時中までは、実相寺の墓地の南側から飯豊・大谷地にかけては、大半はアカマツ林であった。新国道にもアカマツが並木として植えられていた。賢治詩碑の周りも、松の林で有った。これとは異なるが、近年「アカエゾマツ」が早池峰山北面アイオン沢に100本ぐらいの天然林が石塚一雄氏によって確認されていると言う。

 岩手県の県木は「ナンブアカマツ」だそうであるが、害虫のことおも含めてこの県木をもっと市民に関心を持たれて欲しいと思う。

 松はサイナン続きである。


「畑のへり」 麻 小考

2012年06月11日 | 随想・日記

 

   「宮沢賢治全集7」(ちくま文庫)に「畑のへり」があります。

 この「畑のへり」については、天沢氏の解説や続橋氏の「『畑のへり』のことなど」(初出 ≪宮沢賢治童話の世界≫)昭和51・2)等素晴らしい論考がありますので、この童話の解釈や意味内容に付いてはそちらをお読みして戴くとして、ここでは「畑のへり」のぼうとうに「麻が刈られましたので」とありますので、戦後は見られなくなりました麻に少し触れたいと思います。

 わたくしが子供のころには四・五年に一度ぐらいの割合でどこの家でも麻を畑で作っていました。売ることの出来なかった「クズ繭」や麻を、祖母が農閑期に糸車で紡いだ糸を、隣の松岡さんの機織り機で織上げていた。   チャルカはどこの家にもあった。(註)

 わたくしの家では50坪~60坪程の畑に、秋肥料をやり春4月に整地をしてそこへ麻の種を蒔きました。麻は密集植えをして茎に枝葉を少なく成長させるようにします。麻の種を蒔いたときに一緒に畑のへりにトウモロコシの種も蒔きます。トウモロコシは麻との同時成長によって、麻の横に伸びる枝葉を防ぎ、風害おも阻止する役目を果たします。9月上旬には、麻を刈り取るのではなく、根ごと引き抜きます。麻の根は畑ではなかなか腐らないからです。抜き取った麻は、土をふるい落とし押切で根を切り落とし、根は乾燥させて風呂などで燃します。麻の茎から皮を剥ぐやり方は色々あるようですが我が家では、下の小川に漬け置きをして、皮のはがれ具合を手で触り、頃会いを見て剥がして、水洗いをして持ち帰り白い糸に仕上げるのです。濡れている間に表皮の不尽物を、約幅5寸×長さ1尺56寸程の欅か樫の木の家の梁などの破材で作られた、ツルツル・テカテカした台でそぎ落とすのです。「機械のごとく 麻をうつ」(歌205)と真白い麻が出来上がるのです。

               

      上の写真は「所蔵図書目録99」で、賢治を読み解くのに参考になる辞書である。

 上右の写真に「麻」がみられます。拡大してご覧下さい。こんなかんじです。

 左側の手持ちの辞書は、「麻」の稿の「蕡」(フン・あさのみ)が読めませんでした。真ん中の昭和9年の縮刷版のものを右側に載ました。

 織物に麻だけではなく、からむし アイコ マダ(マンダ)等もあるのですが、マンダに付いて一言。 榀の木の樹皮を使い、田植えの頃から入梅にかけて樹皮を剥ぎ、水に浸して外側の皮を取りさり、内側の白い皮をうすくはぎとりそれを灰汁で柔らかくして使用したり、そのままでケラ・ハバキ・コダンを作ったりした。

 

  (チャルカ)

インドには、社会の基礎である農村の素晴らしさ、精神文明の素晴らしさがある。インドの人々の心の奥底のは、神への深い信仰がある。そして武器が暴力を象徴するように、チャルカはアヒンサー(非暴力)を象徴している。
 ガンジーはイギリス製の洋服を脱ぎ自分で紡いだ白い木綿の腰布だけの姿で集会にで、集まった人々に訴えた。イギリス支配からの独立を訴えた。
 インドの民衆は、イギリス製の綿布を脱ぎ捨て、チャルカを廻して糸を紡ぎはじめた。真の機械文明を築くために。ガンジーはチャルカに未来を託していた。(ムンバイの記念館の思いでより)


 詩でない詩

2012年06月08日 | 随想・日記

  

 

   

 

 誰我詩謂詩  誰か我が詩を詩と謂ふ       謂い

 我詩是非詩  我が詩は是れ詩に非ず

 知我詩非詩  我が詩の詩に非ざるを知つて

 始可興言詩  始めて興に詩を言ふべし      興とも

 

  良寛は「我詩非詩」といふ。詩に非ずといふのは、世間で通常詩と稱してゐるやうな詩とは違うといふのであろう。そしてその非詩たるところが実は詩そのものではないかといふ。漢詩の専門家からみれば良寛の詩は規則にかなつていないだろう。とても詩とはいへないやうな言葉遣ひであらう。それはまさしくさうでありながら、それが反って詩といふものではないかと、良寛は思つてゐるのである。唐木順三「良寛 四 良寛における詩」より(137~134頁)

 

  秋月龍は 

   詩でない詩 (「草庵集」鈔) 心中の物を写す

  孰謂我詩詩   たれか謂う わが詩を詩と、(以下略)

と記している。大意 は

  誰がわたしの詩を詩というか、わたしの詩は詩ではない。わたしの詩を詩ではないことを知って、始めてともに詩を語ることができる。(「禅門の異流」225p)とある。

星野清蔵「良寛の詩境」(307頁) 東郷豊治「全釈良寛詩集」(134頁)左の二書にも上記がある。

武村牧男「良寛の詩と道元禅」は秋月の影響と読める。

 大正十四年の「森佐一あて」 賢治書簡にみられる文と、良寛の詩境に近似していて楽しく感じられる。