十月のおしまい頃であった。杉並区立郷土博物館分館「野鳥の父・中西悟堂と善福寺池」展の会場でのことである。おそらくわたくしと同年輩の方と推察されるしとやかで気品に満ちた女性が、会場企画者の西村真一氏と中西悟堂についてかたらいあっていた。
「野鳥観察会での中西悟堂先生はいつも穏やかでニコニコと何方とでもお付き合いしてくれてそれは楽しかった。懐かしさのあまり今日やっとこの会場に来られて、先生の色々な資料を拝見できて嬉しい」と話されていた。
残念ながらわたくしは中西悟堂とは面識はない。鳥に関しても知識もない。唯一と言おうか中西の「講座 禅 第二巻」(筑摩書房発行)の「月報」(昭和四十二年九月)の「現代文明と禅」に魅かれたことがあることを思い出した。現代文明について騙られた後に、こんな事を記されている。
≪禅は思弁や観念の宗教ではない。行持を行動とする宗教である。論理ではなくて実践であり、外界や見てくれの幸福を相手にせぬ自己解放である。それは自我から解放されることによってあらゆる悩みの繋縛から自由にされ、死からも解放されることを教える。西洋のように自己の周囲に壮麗なものを組み立てるのではなくて、自己内観のギリギリの極限において「安心」を得る解脱の道であり、日常の一瞬一瞬に永遠を把握し、迷いの中に悟りを得ようとする迷悟不二、修証一如の生の実現である。≫と、 また ≪「摩訶止観」十巻こそは最古の禅書であり、且つ最も組織的な禅の思想と実践の解説書なのである。≫と。「法華経」の真髄おもかたっておられる。
わたくしは今年一年、何をして来たのか。相変わらず迷いの一年であった。悲しい事が多い一年でも有った。来年はもう少し増しな生き方をと反省の大晦日の今日である。
※ 校本宮沢賢治全集 第十四巻 1139頁 (資料) 「知己の詩人の便り四通」中の一人として、中西悟堂の文があります。