ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

すもとり

2008年07月12日 | 随想・日記

 

 明日から相撲が始まるという。こちらの話は「すもとり」草のこと・「おおばこ」(大葉子)の話です。

 賢治ブログのなかの「イーハトーブ・ガーデン」さんを拝見していましたら、コメント書き込みのところに「オオバコ」の話が出ていた。

  オオバコの写真を花巻の居合わせた人達に見てもらい、花の名前を聞いたが、何方も知らなかったと言うことでした。「”マルコ”のその後について」の記事でしたから、オオバコの地方言葉を期待されたのでしょうか。

 以前紹介したことがあります花巻市教育委員会から、花巻市市制五十周年記念として出版されました「花巻ことば集」に、「マルゴ(マロゴ、マルグ) (植物 オオバコ)」に、「マルゴの茎を引き合って遊んだ」と、説明がされております。わたくしの子供の頃は「まろご」でした。花茎の太くて丈夫なのを選び、相手とクロスに組み合わせて引き合う。切れたほうが負けで、負けた子は、勝ったほうの子のカバンをソ~ッと見つからないようにそいつの家に置いてくる。遊びに行く為である。他に色々な遊びをした事が思い出される。佐藤政五郎編「南部のことば」<S57,9,15 印刷 (株) 杜陵印刷>に、「まろこ」は(便器のこと)と記載されています。「おおばこ」別名(地方語ふくめて)が多く有るようです。

   化石人間の日記

 


「キーデンノー」について訂正とお詫び

2008年07月11日 | 随想・日記

 

 前回のブログ「黒岩四十九里遺跡から」で、 「キーデンノーは賢治の創作語であろうと思われる」との考えを述べましたが、間違っていましたので訂正をしてお詫びを申上げます。

 現高木岡団地近在(一部か?)を「キーデンノー」と呼ばれていたとの事です。「石仏庚申塔研究者・日本石仏協会会員 嶋二郎氏他に確認」。(「こぼれ話 宮澤賢治」 白藤 慈秀著59頁にも記載あり) 

 わたくしは、中世の城・柵・館一覧(司東真雄著 岩手の歴史諭集)等から得た、「旧天王山」(高木岡神社)やこの近くの地域などの、中世の「消し去られた」変遷過程を重要視過ぎて、事実を軽視致しました。「宮澤賢治の詩の世界」からの指摘も有りました。各位のご教示のお礼を申上げるとともに、賢治創作語を訂正いたします。

 


黒岩四十九里遺跡から・・・

2008年07月04日 | 随想・日記

 

 北上市教育委員会の文化財調査報告書第五集「黒岩四十九里遺跡」の第一図には、五万分の一地図が掲載されている。この地図の右上隅の更木の処に「八天王」と記されているのが見える。国土地理院の昭和51年二万五千分の一地図「口内」の処には、更木の一部には「上八天」と「下八天」が見えていた。宮澤賢治の「経埋ムベキ山」の「旧天王山」近辺の広い地帯は、牛頭天王信仰が視られところでる。

 黒岩遺跡調査から三十数年たった現在の地図上には「八天遺跡」の記名が黒々と見られるようになった。Google等で地図の検索でも見られる。またこの「八天遺跡」については、PC検索である程度の必要な内容については理解が得られよう。(北上市の「八天遺跡」に付いては、北上市立博物館「北上川景勝地”みちのく民俗村”内で展示物が見られます)

 さて、「経埋ムベキ山」についての研究解説は、「宮澤賢治の詩の世界」が最も詳しいのでご覧いただきたい。また「旧天王」に付いての以下の説明も同様であるし、従来の解説者のとは違い、これ等の考え方にはわたくしも同感である。ただ、以下一部引用する処については、私の考えを述べたい。

 『 また、旧天王山の南東の山麓には、「<RB>久田野<RP>(きゅうでんの<RP>)</RP>遺跡」という名前の縄文時代の遺跡があり、紀元前4000~2000年頃の大規模な集落跡などが発掘されています。この遺跡の出土品や模型は、2004年に開館した「花巻市博物館」の展示の目玉の一つにもなっています。

 おそらく「きゅうでんの」というのはこのあたりの昔からの地名で、「旧天王」という表記は、後からの当て字なのではないでしょうか。』

 当て字の考えはさておいて、「天王」のつく天王町・天王山・天王祭等はすべて牛頭天王にかかわっている名称といわれている。(村山修一・本地垂迹) 明治維新の神仏分離政策では、牛頭天王は神仏習合の悪い代表例として扱われたが、村落共同体のなかでは疫病や農作物の病虫害を防ぐ神として崇められていた。豊作を占なう大事な祭りとして蘇民祭が現在でも行なわれているが、天王信仰とのつながりも視られるという。「経埋ムベキ山」の「旧天山」は、地域的考慮からみて古くから信仰の対象であった天王信仰の山であったと云えようが、「キーデンノー」は賢治の創作語であろうと思われる。

 

 国土地理院の五十年版地図には「旧天王山」(仮にそう呼んでおく)西南斜面の団地は「光が丘団地」であったが、五十五年版には「高木団地」となっている。時代の移り変わりのスピードが感じられる。