ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

獅子鼻

2009年05月22日 | 随想・日記

 

 「賢治原稿新発見」の朝日新聞記事コピーを、知人の住職から頂いた。

我が家も朝日であるので見てはいたが、その後また違う知人からこの記事の話をされ、マスコミの威力を感じた。内容については両人ともあまり興味が有るとは思われなかった。わたくしも良く解らぬ事がある。

 先ず「自動車が三台」である。校本全集の年譜新井正市郎からの引用で「-宮沢さんは薄衣で下車され千厩までの乗合バス・・・」とあって、どんなバスだろうと思っていた。

大正時代には、当時「乗合自動車」と「乗合バス」が同じように呼ばれていたことがあったようだ。乗合バス事業法のバスではなく、上記の駅前写真に出ている「乗合自動車」の事だったようである。

 詩の状況現場の一部であろう薄衣は、大正期に入って産業が際立って盛んになり、また佐伯旅館や赤沢旅館の赤塗馬車や黒塗馬車が名を轟かせていたとの事である(一部岩手県地名辞典133頁にも記事あり参照されたし)。道路のインフラも進んでいた事であろうが、なにせ雨の多い時期にはアスハルトやコンクリート道路のない時代である。詩を詠むとさもありなんとも思えられのである。

 駅前写真と同じ昭和四年の「日本案内記」(鉄道省)東北篇に、猊鼻渓の案内記事がある。その中で「この渓谷を古くから獅子ケ鼻と名づけ、云々とある。賢治の作品「二十六夜」にも獅子鼻が出ているが、こちらの獅子鼻はわが鼻ったれ小僧時代の思い出の場所でもある。当時の北上川岸は、寅さん柴又の裏の渡し場のような土手で、獅子鼻近くまで草刈り場であった。数本の赤松が有った渡し場の所の川の流れはゆるやかであったが、その下流は急流で、獅子鼻の弾劾絶壁へ激突をして渦巻きながら左東側へと流れを変えていた。戦後数年たって獅子鼻へ行って見たら一変していた。断崖上の松の木は切られ、激流が激突していた突端は跡形もなく消えていた。

 豊沢川や北上川の川床が浅くなっている所を歩くとき、あったがせられだぁぢゃ と云っていたと思っていたので、新しく発見された詩をさらりと読んでいた。あったがせるとは、川の中の流れに圧倒されるさまを云う事であると思っていたのである。

 新しく発見されると云う事は、色々な意見がみられて楽しいことである。

 写真は「日本地理風俗大系」昭和四年十一月二十八日発行 発行所新光社

 120頁より 白河駅前の写真 人力車の右斜め上に、自動車が三台見られる