一昨年の九月に「オツペルと象」をここで採り上げた。「雨ニモマケズ」に(つづく)として他に進んでしまった。日にちがたち過ぎたがきょうはそれのつづきである。
「雨ニモマケズ」の後半の詩が、賢治詩碑第一号として桜の地に建立されたのは、昭和十一年十一月廿一日である(詩碑裏に記名あり 前面高村光太郎・建立日佐藤隆房揮蒙)。「雨ニモマケズ」手帳の発見の経緯は、あまりにも有名であるのでここでは省略しますが、この有名な「雨ニモマケズ」が何時どのようにして世に知らされてきたのかには、間違いの記述や定かに記されたのをわたくしはあまり知らない。
「宮澤賢治全集」に収録されたのは、昭和十八年十月三十日発行の十字屋版第六巻(雑編)が最初であるが、それ以前に見られるのは、昭和九年九月二十一日の岩手日報夕刊4面に「宮澤賢治追悼号」、そして上記の本に見られた。これが早い時期のものである。以後「宮澤賢治名作選」松田甚次郎編には昭和十四年三月七日発行に「雨ニモマケズ」が収録されている。
さて 間違って記述されているのは何処であるかだが、それは「宮澤賢治全集 別巻」(昭和十九年二月廿八日発行)の年譜である。
上記十字屋版 「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」の昭和十一年(没後四年)に、日本少年(ママ)国民文庫「人類の進歩に尽した人々」に詩「雨ニモマケズ」掲載
とあろ。その前列には、
七月十五日、山本有三氏編日本少年(ママ)国民文庫「日本名作選」に「オッペルと象」選定せらる。
である。この七月十五日と、十月一日、「歴程」の間に記されているのが写真掲載の上記の本である。
これ以外の本は、草野心平編 「宮澤賢治研究」十字屋書店 昭和十四年九月六日発行が有るが、清六編の年譜に『「雨ニモマケズ」を掲載』とある。この本には「雨ニモマケズ」の本文は掲載されていないが、桜の詩碑の写真が有る。
筑摩版の「宮澤賢治研究」「宮澤賢治研究文献目録 小倉豊文編」にも、没後四年が三年に変っているが、昭和十一年の七月に「雨ニモマケズ」収録とされているとあるだけで、「雨ニモマケズ」の本文の記載は無い。小倉さんは以後「手帳研究」でもこの件には触れていない。
上記の写真でご覧戴けるように、本として世に出たのは昭和十二年一月十一日であるが、清六さんがこの本を紛失されたかどうかで、確認をされていなかった。この記載間違いが、小倉編にも引き継がれた。上記写真の本は第三回増刷のものであるが、現今では発行日はPCでも調べられる、上記の発行日は間違いない。
本題に入るが、「雨ニモマケズ」の詩句「ヒドリ」が「ヒデリ」に変えられたのは、全集に収録編集以前に宮澤家の手中にあった経緯をみて、間違いなく宮澤家が変えたと確信できると思う。時期は新聞発表の前頃で有ろうか。
(「ヒドリ」「ヒデリ」の昨今の話題に付いては、別のきかいに記す。ここでは入沢さんが勝手に「ヒデリ」と変えたのではない事を書きたかったのである。)