ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

こんにやく「推論」

2014年07月30日 | 随想・日記

  

 こんにやくの

 す枯れの茎をとらんとて

 水こぼこぼと鳴る

 ひぐれまぢかの笹はらを

 兄弟二人わけ行きにけり

            文語詩 未定稿 [こんにやくの] より

 

 「校異」によると、「冬のスケッチ」第ニ四葉の章に手入れしたものであると言う。

 

 小野隆祥さんと佐藤勝治さんが「冬のスケッチ」関連に付いて、ご両人の考えが異なったときだと思うのだが、どう云うわけかわたくしが小野さんからコンニャクに付いての問い合わせのお手紙を貰ったことがある。トシさんが入院したことがある東大分院の古い建物の一部(南東裏・病棟?)の写真と、その斜め前庭に生えていた大木の写真とを送った時だったと思う。

 わたしは花巻で「こんにゃく」を食した事はあったが、蒟蒻の生えている実物は見た事が無かった。たぶん当時岩手では蒟蒻は栽培も野生もなかったと思う。東京に住むようになって群馬県の下仁田や埼玉県の秩父地方に出かけたときに、あの異様な茎の「こんにゃく」を初めて見た。ところで賢治の行動先で「水こぼこぼと鳴る 笹」があるところとはいったい何処だったのだろうかと考えたことがあった。

  「まむしぐさ」も「天南星テンナンショウ」も「こんにゃく」に何処となく似ている。どちらも「里芋科」であるからであろう。子供の頃、我が家の東南端崖ふちの上の所に、「まむしぐさ」が数株植えてあった。ねんざなどをしたときにその茎?を擦って貼り付けるのだと祖母に教わった。この茎は蛇より気持ちが悪いと思ったものである。木村陽二郎監修「図説草木名彙辞典」(柏書房発行)によると「まむしぐさ」も「てんなんしょう」も蛇蒟蒻の別称と記されている。わたしは、賢治はこのどちらかを「こんにやく」と詠んだのかと考えていた。

 あるとき清六さんにこの文語詩の[こんにやく]について伺ったら、「これはフィクションでしょう」とのことだった。小野さんとの手紙のやり取りから随分時日が経ってからのことであった。

 わたくしは哲学も禅も解らないが、「蒟蒻道」なる語句を最近あるところで拝読したので蒟蒻問答ならぬこんにゃくについての思い出でのメモである。

 

   推論

      推論というものは、既知の事実を考察することによって、未知の事実を発見することを目的としている。したがって、推論は、真なる前提から出発して真なる結論に到達するかぎり、よい推論である。要するに、推論の妥当性の問題は、まったく事実にかんする問題であり、たんなる思考にかんする問題ではない。   パース 上山春平訳

 


賢治の赤いトマト

2014年07月28日 | 自然科学

 平来作「ありし日の思い出」(草野心平編「宮澤賢治研究」)の中に「忘れがたい事」として「羅須地人協會」なる一文がある(274p)。

  春になると北上川のほとりの砂畠でチューリップや白菜をつくられたのである。宅の前には美しい花園をつくつて色々な花を植えられた。

  先生はいつも自分が何処かへ出かける時は、小さな黒板に必ず行先や帰りの時間をしるされて出かけるのであった。

  いつか宅に遊びに行つた時不在であつたので、黒板を見たら畠で働いて居る事がかゝれてあつた。早速畠に逢いに行つたら、先生はチューリップの手入れをして居つた。

  先生は仕事を終へてかへり、縁側に腰をおろして二人で色々と語り合つて居る間に、昼飯時間となつた。先生はそばに赤くなつて居るトマトを四つ五つナイフで採つて私にくれた。・・・・・・・前後略。

 平のこの文章では「チューリップの手入れをして」居たのは何月なのかは良く解らないが、「赤くなっていたトマト」の時期なら九月ごろであろうか。  佐藤文郷のこと の中程の文をもう一度お読みいただきたい。

〈大正七年八月一日東北6県農事試験場長会議を八戸分場に開くことになつたので何か珍しいものを作る様にとの命令でであった。それで場長と相談して先ず玉蜀黍と蕃茄を出すことを計画し成功したので場長から賞められた記憶がありますが、其の頃東北地方では露地で8月1日までに蕃茄(注トマト)の完熟は出来なかったらしく、全く今昔の感がある。〉

平の 「春になると北上川のほとりの砂畠でチューリップや白菜をつくられたのである」とはどんな意味だったのか。そして昭和二年の事だったのかも解らないのである。露地の植え込みは、チューリップはヒヤシンスと同じ季節の9.10月頃に行うのであるが、昭和二年か三年の事であったのか。賢治の「MEMO FLORA」ノートには、ヒヤシンスやグラジオラスの球根に付いてのメモはあるが、チューリップの球根は定かではない。平の「羅須地人協會」は、「先生は農学校を辞し花巻の東南の八景と言う一角に自分一人の家を建ててしばらく暮らしたのであった」とあるが、自分一人の家を建てたのではない、宮澤家の別荘として建てられたのであることは周知の事実でだし、春の北上川ほとりの砂畠でチューリップを見たのかどうかはわたしは疑問をかんじる。