上記の写真は、以前にも紹介したことがありました十字屋書店版「宮澤賢治全集」の第一回配本「第三巻」奥付写真です。
筑摩書房版(三十三年)の小倉豊文作成「宮澤賢治研究文献目録」にあります「昭和十四年十一月、第一回配本」記載は、大山氏も指摘していましたが間違いでしょう。
余談ですがこの第三巻は、百部限定の一冊で上質な紙を使用した豪華本です。
わたくしにとって十字屋版全集は、思い出のいっぱい詰まった本でした。学校の校長室に有ったことをT先生と話し合った。その先生も今は遠くの彼方である。
この十字屋版全集は、制作過程が謎が多く含まれております。この謎は清六氏に全く関係が無かったのかどうかが、明らかにされて欲しいとの思いです。
出版された本によっては、編纂者が八人であったり七人になったりしています。森惣一が入っているときには宮澤清六が消えて七人、森惣一が消えて宮澤清六が加わる、それにも統一制が見られない等々。
当時宮澤家の二階で、賢治の原稿整理にあたられていた飛田三郎のことは如何様であったのか、また清六氏の全集への加わり方をも含めて、謎として終わらせては済まされない十字屋版時代の事が、おもく考えさせられる。
また、昭和二十七年から八年にかけて、奥付に張られている藤原印の上製本は、藤原氏に、宮澤家からの援助であったのであろう。賢治精神を継いだ藤原氏は開拓農業で苦戦中であった。
岩手県立図書館 蔵書15冊中 5冊
盛岡市立図書館 10冊中 3冊
〃 都南図書館 7冊中 2冊
花巻市立図書館 26冊中 1冊
私と周辺 22冊中 7冊
計 80冊 18冊(22.5%)
実に世上に出回っている20%強が「藤原」印ということになります。藤原印は27,28年版は全て但し第5巻を除いて)。
なにかもっと確かな「藤原」印の根拠をご存知ありませんか。
下記は上記貴殿のコメント。
また、昭和二十七年から八年にかけて、奥付に張られている藤原印の上製本は、藤原氏に、宮澤家からの援助であったのであろう。賢治精神を継いだ藤原氏は開拓農業で苦戦中であった。
③『昭和文学全集14宮澤賢治集』の政次朗の吃驚・・は何とか解読しましたが①、②が皆目わからない。どういう事ですか。