ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

環境破壊

2007年12月11日 | 随想・日記
 宮澤賢治の童話作品は、底の底のもっと深いところで、少年時の想いを華麗に惹き起こさせてくれる。
 「毒もみのすきな署長さん」もその一つだった。
 次のような作品です。

 四つの谷川が、カラコロ山の氷河から出、
プハラの国に入り、プハラの町で一つの大きな川となる。
 川には魚がいる。
 この国の林野取締法 第一条は火薬で鳥を捕ること、
毒もみをして魚を捕ることを禁止。
 毒もみとは山椒の皮をむいて乾かして、
臼でついて粉末にして、南京袋等に入れ
魚の居そうなところでもみ出すことだと床屋のリキチ。
 ある夏、この町に新しい警察署長が就任。
 赤ひげ、銀の入れ歯で川獺(かわうそ)に似た
金モールのついた赤いマントを着て毎日町を巡視。
 細かいところに気のつく、やさしい署長だった。
そのうち、子供たちの間に署長の夜の行動が問題になる。
沼の岸に署長が三、四人と隠れていたとか、
山椒の皮の粉のところで署長が変な人と交渉していたとか、
その他。
 それらの噂に町長はたまりかねて、
警察に行って署長を訪問する。
 署長は自分が犯人だと名乗り死刑となる。
  死ぬ前に署長は「面白かった。(中略)
  こんどは、地獄で毒もみをやるかな」といい、
 みんなは感服する。
 
 -概略は、續橋氏によるものー(一部変えています)

 小生の尊敬しています「イーハトーブ・ガーデン」で
「サンショウ」が採り上げられていました。
 拝見していて、消去にチエックを入れたつもりでしたが、
 ミスでつい 書き込みをしてしまいました。 
 後ではどうにもなりませんでした。
 それにつきまして、ここでニ・三釈明をしたいと思います。

 賢治の童話については皆さんよくお読みでしょうから、この場では省略いたしますが、ただこの作品「毒もみのすきな署長さん」の評価は様々のようです。
ちくま文庫版「宮澤賢治全集」(6)に載っている 天澤退二郎氏の解説でも、「ヘンテコなお話、というのが大方の読者の第一印象ではあるまいか。」とされております。
 また 賢治童話に造詣の深かった續橋氏は、「エキゾチックな雰囲気の中に、地方生活の一端をユーモラスに捉えている作品」と評価を為さっておられます。

 ところでわたくしは、この作品の評価についてはさておいて、
いつも山椒に出合いますと、複雑な思出を感じるのです。
 この「毒みみ」のことが思い出されるからです。
 子供の頃のわたくしの家近くに『古川』という沼が有りました。
 私の家が沼に一番近かったせいも有りましたが、
ここの沼で、工兵隊員が手榴弾での「ハッパ演習」をやって、魚を捕るのです。
 桜には、工兵隊の兵舎がありました。
 「ハッパ」を行なって工兵隊が引き上げた後には、
小魚が沢山死んで、浮いていました。
 「ハッパ」の音を聴いた人々が来て
浮いている残された魚をを拾って素早く帰りましたが、
「沼」には台風が来て、北上川が氾濫をおこさないうちは、
 魚がまったく居なくなるのです。
 

 私等の「サンショウ毒もみ」は、警察に見つからないように、
茂みのある小川でやるのです。
 豊澤橋を渡ってから東側に行った所に、現在は桜ですが、
町が一望できる高台に、佐藤院長先生の豪邸が有りました。
 この崖下には清水が流れていて、この小川等は、
サンショウでの魚とりはもってこいのところでした。
 楽しいものでしたが、「見つかると
ショッピカレルゾ」と云われてもいました。
  童話のなかに書かれている

  「火薬を使って鳥をとってはなりません
   毒もみをして魚をとってはなりません」

 山椒の(毒)もみは、魚は苦しがって「エップ カップ」
 人間でいいますと溺れる状態です。
 小川では、どんどん効き目のある刺激成分が薄まって、
魚は素早く取りませんと、どんどん逃げられてしまいました。

 毒もみも、「火薬」の使用での生き物を取ることも、
環境破壊です。絶対の権力者・軍隊が、「沼」での行いは、
 賢治先生は「渋い顔をしていた」と
 「沼」のほとりの田で働いていた人の声もありました。

 現在、環境破壊を止める活動が叫ばれていますが、
この作品には、ユーモアをまじえて教えた「環境芸術」者
賢治を彷彿とさせられるのです。
 私にとっては色々と反省と教わる事の多い
印象深い作品です。

  


我が家のわさび

2007年12月03日 | 随想・日記
子供のころに住んでいた家は、宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の詩碑と滝清水神社との中間程の崖上であった。
崖が崩れないようにとくるみの木が植えられてあった。三本ほどが在り、三種類のくるみであった。
崖下に湧き水が二箇所ほどあり、崖下は滝清水水神社からの湧き水と、途中の湧き水を集めて、我が家の下で小川となって、少ししもの古川と呼ばれていた大きな池に流れていた。
小川までの崖は、我が家の屋敷内であった。
湧き水の所には、冬の雪一面になると雉が、北上川の向いからの山あいから良く飛んで来ていた。
やまばと(キジバト)や、雉が、湧き水の所に生えている若芽をついばみにきていたのであろう、新雪に記録して行ってくれた。

今年の春であったが、『「花南の歴史 かわら版」収録』 の著者 豊川益太郎さんの家にお邪魔した。
豊川さんがこんな話をしてくれた。
 わたくしの家の下の崖のところでわさびをとった、と云われた。どれほど採られたかはお聞きしなかったが、それほど沢山は無かった筈だから、たいしたことではないが、実は私の兄がせっせと植えていたものである。
懐かしい思い出であった。

我が家の北側ー伊藤栄三さんと伊藤権吉さんの崖下、滝清水神社までの所は、葦の湿地帯であったが、此処の地のいち部へ伊藤克己さんがわさび田を作られたとのことだ。成功の程は「聞き書き」座談会ではどのように評価されたのであろうか。

「枯草原をわさび田に」は出来ないが、最近では埼玉の坂戸で西洋わさび(葉がごぼう葉ににている、畑で栽培している品種)をつくられているのを見たが、賢治の時代での話であるなら、湧き水の豊富な所でのわさびは可能であろうが、「枯草原」では無理ではなかろうか。

我が家の崖下のわさびは、桜の木の下寄り、二つ在った湧き水の賢治碑寄り南側の方は、小木や草での隠れ場所で無事であった。今は汚物排水溝の土手のため一変した。