ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

佐藤隆房と冨山房

2012年02月25日 | 随想・日記

 

 賢治との関わりが合った菊池武雄は、「注文の多い料理店」の挿絵と装丁を行った武雄と、新聞(メディヤ)に人生を掛けたもう一人の武雄が居ったと云う事でした。最後に佐藤紅歌に一言触れておく。

     

 佐藤隆房の「宮澤賢治」の初版(昭和十七年)後記に、加茂儀一の名が出ている(初版以後この後記か何故か消える)。加茂は冨山房から昭和十六年にある本を出している。儀一の奥さんは紅歌の姉妹と聞く。「宮澤賢治」に深く関わったのは飛田ではなく紅歌であった。


宮澤賢治友の會

2012年02月18日 | 随想・日記

 

 「宮澤賢治全集」や「江刺と宮澤賢治」等によると、菊池武雄の誕生日は明治二十七年十二月八日で亡くなられたのは昭和四十九年七月十一日である。

 昭和十年四月から同十一年十二月までに出された宮澤賢治友の会 「宮澤賢治研究」は、賢治研究資料としては最初期のものである。発行者が菊池で連絡場所も自宅だった。

    

 わたくしは菊池武雄に就いての知識は無い。しかし昆の「新聞人菊池武雄」は「宮澤賢治の友人」とは異なる人物ではないかと思う。記載されている生まれた日の違いもあるが、亡くなられた頃の年月日も異なるように思われる。「練馬新聞」の社長であった菊池は、昭和二十三年から同五十六年五月まで「練馬新聞」を続けていたとの事である。住まいは小竹町や桜台に住んでいたとの事、堀尾さんが知らないはずが無い。奥田氏も国会図書館で「岩手日報」等の新聞を良く調べられている(研究資料探索)。両者とも「新聞人菊池武雄」には一言も触れていない。

 「注文の多い料理店」の挿絵や装丁そして賢治昭和六年東京八幡館での病臥に駆け付けた菊池武雄の晩年がわたしはあまり良く解らない。「全集」に「戦後は吉祥寺にデザインを生かした洋装店を経営」とある。「書簡」に「展示会云々」とあるが堀尾さんは「北斗会」について知って居られたと思うが何も書かなかった。「初期研究資料集成」の座談会でも菊池の事は「校本宮澤賢治全集」に出つくしているからか、何方も触れることはなかった。

 些細のことだが「西巣鴨第二小学校」の名前は、昭和六年四月一日~昭和十年九月末日であった。

 

 ※ 訂正 文中奥田氏の「研究資料探索」ではなく「ホタル 増補版」でした。


菊池武雄と「練馬新聞」

2012年02月16日 | 随想・日記

  「新校本宮澤賢治全集」によると、佐藤紅歌 明治31・1・13~昭和53・10・16とあります。昆は生年月日に付いては不明だった(間違った記述をしている)。紅歌と八木・金田一に付いては又の機会に記す事もあろう。だが此処では昆のこんな記事に気が魅かれた。菊池武雄にである。以下引用しよう。

  「 岡山儀七によって世に送り出された新聞人が いる。菊池武雄(M30・7・13生)である。菊池武雄は、大正十年ころ花巻から『猫額私語』などを『岩手毎日新聞』に投稿していた。それを主筆岡山儀七が認めて『岩手毎日新聞』に入社させた。菊池は後に『東京日日 新聞』に移り、盛岡や青森の支局長をへて本社に入り編集部長に就く。敗戦後は『岩手新報』の副社長、編集局長となる。昭和四十年ころは、東京練馬区で『練馬新聞』を発行している。菊池は宮沢賢治(M29・8・27生)の友人であった。」

      (岡山儀七に関してはPC検索でご覧下さい) 

   先ずは入手した「練馬新聞」です。(練馬区光が丘図書館のご厚意による)

 どうゆうわけか菊池武雄に付いては、小生の知りたい経歴や賢治関連以外、例えば挿絵画家としての活躍がどのようであったのか、在京中の行動については堀尾氏は良く存じていたはずだと思うが触れていないようだ。博識の「校本全集」にもあまり良く載っていない。(「イーハトゥブの先人たち」を見ていない小生など解るはずもないが)。

    つづく


岩手タイムス

2012年02月15日 | 随想・日記

 「岩手タイムス」は「校本宮澤賢治全集 第十四巻 年譜」にも参考資料として出ていない(721頁 参考文献 新聞 )。昆も昭和11年以降しか見ていないとある。(以下写真を拡大して見て頂きたい)

  

 「書簡 280 母木 光あて」に、「花巻町相生町 岩手タイムス 佐藤紅歌」が載っているが賢治解説に付き全てを網羅している上記本「年譜」に「岩手タイムス」の項目が見られない。残念。色々と推測も出来るが推測ではしょうがない。

 清見が発行人名であるが、社長は平野で、副社長に「箱庄」(醤油屋&金融)の二代目社長箱崎圭助であった。箱崎は敗戦後に町長に立候補して北山愛郎に敗れた。紅歌家も箱崎家も孫の代になっているが、もしかしたなら「岩手タイムス」や他の新聞も有るやもしれない。

 「稗貫郡の郷土紙」は、紅歌の生年月日等の誤記不明なところもあるが、色々と楽しく読める。

    つづく


週刊 読む岩手

2012年02月13日 | 随想・日記

 花巻での新聞人を語るとき、八木英三や佐藤紅歌それに金田一国士を多く語らなければならないと思う。そして「花巻新報」(関登久也が命名し佐藤隆房が委員長で出来た新聞)の時代になるのであるが、ここでは前回のつづきで鶴田辰蔵にふれておきたい。

  八木が最後に編輯発行した「週刊 読む岩手」は、当時の八木の住所 花巻本城58で、印刷人が鶴田辰蔵であった。このとき鶴田は20代後半だったか。こんな関係で佐藤紅歌や賢治の遺言であった「国訳妙法蓮華経」を宮澤家から頂戴したのであったのであろう。

  つづく