小倉豊文さんの「宮澤賢治聲聞縁覚録」に、「三人の佐藤さん」(23p~)なる文がある。その一人に佐藤勝治さんがおられて詳しく記されている。
佐藤さんにわたくしがお逢いしたのは、山口の小学校の教師を辞められてまもなくの頃であった。勝治さんが盛岡で写真屋さんを開業してからもわたくしが東京に来るまでは随分お世話になった。
花巻の町長に北山さん(後に国会議員に当選・社会党の副委員長。地方行政のエキスパート、国会で活躍の北山愛郎氏)がなられた時に、松舘さん(古本屋さん・北山さんの腹心)や多田実さん(当時町の土木課におられた。「宮澤賢治研究Annualにも論考あり)それから 画家の寺島さん、そして佐藤勝治さん・佐藤薫さん(小原医院の娘さんで津田を卒業された方)そして村井さん、上町の島電気店の島さん等々の面々で、北山さんを中心に「コスモス協会」という文化団体?なる会ができたことがある。ニ階の町長の机や、役場の左隣の建物の土木課で、職員が退社された夕方から私たちはよく集まり、女学校の隣の当時出来立ての「公民館」?で、東京からの文化人を招き講演会を行った。また島さんの好意で店から最新式の電蓄を運び、売り物のレコードで、レコードコンサート等を数度やったことがある。講演会等も含めた会は月にニ度ほど開いたこともあった。ポスター書きや、それを町に貼ったが、集まってくれた人が公民館いっぱいになることはなかった。
上記の小倉さんの本106頁にこんなことが書かれている。
佐藤勝治さんは今盛岡で写真屋さんを開業しているとのことだが、勝治さんの兄さんは前から宮澤家と同町内で写真屋さんをしていた。そして花巻農学校へ生徒の卒業記念写真をとりに行った時、賢治から一枚私を写して下さいと頼まれ、校舎に隣接した実習場で写したのが、あの最も流布している、中折帽をかぶり、オーバーの襟を立てたまま、ややうつむいて両手を背後にまわし、さりげなく立っているポーズの写真なのである。
勝治さんの実家(佐藤家)は「藤田屋写真館」で、宮澤家から南・豊沢橋川方向ニ三間隣であった。
勝治さんについてのお人柄が良く記されてい本は、何と云っても「山荘の高村光太郎」だとわたくしは思う。
この本の92頁に賢治の「月天子」の項に、高村光太郎の詩「月にぬれた手」が採りあげていて、「美の宗教」について語られている。 (つづく)