≪ロゴス古書ばんがいへん≫
山箒 (ヤマボウキ)
写真の品は、国語辞典や漢和辞典には出ていない。植物図鑑等のなかに見られる。
ほつつじ (穂躑躅) つつじ科 { まつのきはだ・やまわら・やまぼうき }
別名でやまぼうき(山箒)とも呼ばれますが、枝を束ねて箒にしたことに因みます。ツツジの仲間であるが、夏の終りから秋に花を咲かせる。{ 写真の箒は、初冬に刈り取りして作られた品}
箒木(草箒)や竹箒と異なる。
東北地方で、農事用としてかってはよく使用されていた。
≪ロゴス古書ばんがいへん≫
山箒 (ヤマボウキ)
写真の品は、国語辞典や漢和辞典には出ていない。植物図鑑等のなかに見られる。
ほつつじ (穂躑躅) つつじ科 { まつのきはだ・やまわら・やまぼうき }
別名でやまぼうき(山箒)とも呼ばれますが、枝を束ねて箒にしたことに因みます。ツツジの仲間であるが、夏の終りから秋に花を咲かせる。{ 写真の箒は、初冬に刈り取りして作られた品}
箒木(草箒)や竹箒と異なる。
東北地方で、農事用としてかってはよく使用されていた。
金田一京助著 石川啄木 発行所 出羽書房・芝書店(昭和十一年三月十五日発行 定価金壱円弐拾践)
此のつたなき思い出の一と巻を、
いつまでも青年の眉宇をして
おもかげにたつ、まぶたのひとー
故人啄木の英霊に さ さ ぐ
金田一京助
昭和文学全集 第十四巻 宮澤賢治全集 角川書店 昭和二十八年六月十日発行
この全集を私は勝手に小倉版と呼んでいる。宮澤賢治全集の中で、この頃までに出ていた全集に比較して信頼性を捉えていた本と思っている。
少しこの本の年譜に触れておきたい。
明治二十九年(1896) 一歳
八月二十七日(旧暦七月十九日)岩手縣稗貫郡花巻川口町大字里川口第十二地割(現在の花巻町豊沢町)宮澤政次郎(二十三歳)同いち(二十歳)の長男として母の実家同町鍛治町の宮澤善治宅に誕生。當時、家は古着及び質を業とす。四歳、真宗の経典「正信偈」「白骨の文章」を聴いて暗誦す。 {以下略}
「四次元」の読者以外は、この本で賢治の誕生日が八月一日から、八月二十七日に成ったのを初めて知った人がたいはんであった。このことに付いては他日に譲るとして、出生地に注目したい。明治二十九年の時点では、上記が正しいと思う。(他日資料リンクで提出)
追記 實践國文學 第七十二号。(平成19,10,15) 小倉豊文の宮沢賢治研究 栗原敦 をお勧めしたい
つづき
ことに啄木の誕生についての久しい問題が、二君の踏査によって解決して、定本石川啄木が、その点、こんどこそ正確になったことを読者とともによろこぶ。ただ、岩城君は、文献による主義として、役場に残っていた戸籍簿によって啄木の誕生を、明治十九年二月二十日と決定され、十八年生まれの説は、取り上げた老婦(※助産婦のこと)の記憶でいうにすぎないからとて採られない。私は故人の口から、「暮れに生まれたが、田舎のこととて、届け出は、春になって届け出たので、年が一つ、実際より若くなっている」と聞いた覚えがあるものだったから、年譜もそれに従ったが、ただ、十月二十八日が、「暮れ」とは言いがたいので、少しへんに思うところがあった。それが今度、両君の踏査で老婦のいうのは旧暦のことであって、新暦ならそれは十二月四日生まれと補正することができた。(以下略)
昭和29・10・1
金田一京助
以上両書の序文抜粋です。宮沢賢治の誕生日が取り沙汰される前後のころの時期であった。
金田一京助著 「定本 石川啄木」(s26,1,20)と「新訂版 石川啄木」(s45,11,20・改版初版)より
切れ凧 -序に代へてー
糸切れし紙鳶のごとくに
わかき日のこころ軽くも
飛び去りしか
ー啄木ー
お互いに若い眸を湿ませて、返らぬ少年の日に思いを馳せた、うらぶれ時代の君の歌である。が、それさえも今は遠い昔となってしまった。
年若い君に先立たれた私は、君の亡きあとを、甲斐もなく生き残って、さまざまな世をも人をも見た。しかも新しい時勢が、君の言葉の一つ一つを裏書きして進展するのを、胸に躍らしてながめ、また遅蒔きながら、その後の人たちが、在りし世の君が深き歎きを歎き、君が尊き悲しみを悲しみ、ようやく君を発見し、君を想起し、ついに啄木愛が、男といわず女といわず、年若き全日本の声となってゆくのを目のあたり見て、涙せきあえず驚歎しながら、はた、当然そうなくてはならなかった期待の完全に充たされてゆく歓喜に酔いながら、謭劣の身は、日々の営みの劇しさに、みずから老いの迫るを知らず、不惑を夢の間に過ぎ、いつかまた知命の坂を越えていたのである。(以下略)昭和九年一月三日 著者識
例言
一 その方面に何の素養もない私が故人を語るのは、痴人の迷語に似るであろうことを深く恥じ入る。ただ一故旧として、生き残って故人を語ってみたい心のやみがたいものがあるのは、後世、人間啄木の全容を再現する日に、一毫の寄与ともなれかしと親しくこの耳で聴き、まのあたりこの目で見たところを記録しておこうとする微意にほかならない。(以下略)昭和二十一年三月下浣
新訂版の序
本書は、もと、年若い友、梓書房主人の乞うに任せて、おりおりに書いた故人に関する文章を集めた、四百ぺージ余の写真入り、鹿野紫の装丁本だった。それが、仮綴本なって知らぬ本屋が出したことなどもあって、角川書店が「飛鳥新書」の中に収めて出版した時は、切半して、上半を一冊にまとめ、下半を『続石川啄木』として、年譜などはこのほうへ譲って出したものだった。文庫本も、この上半だけで、年譜のない石川啄木になって世に行なわれた。年譜が私の骨折った啄木伝なのだが、他の人々の利用に任せて私の本には、とうとう埋もれてしまった。私はひそかにこれを残念に思っていた。ただし啄木日記が、刊行になったり、ことに、昨年、北海道大学に啄木の論文を出して卒業された岩城之徳君と、今年、早稲田大学に啄木伝を出して卒業された盛岡の昆豊の両君の、偶然一つに落ち合って啄木の故郷に、啄木伝の詳細な調査を踏査を実行されるに及んで、新しい事実が続々上がって、これによって、年譜の加筆を要することがいろいろとわかった。本文も、私の記憶で書いたものであるから、やはり、どうしても補正せずにおれなくなったのである。その由を角川書店に話したら、ちょうど、文庫版が、十版を重ねて、紙型が磨滅しかけたから、新版を出そうとする。ページの動き、かまわないから、補正結構ですと言って来たから、私の記憶ちがいを正すことができてほっとする。つづく