ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

古書 三題 佐藤惣之助著「詩と歌謡の作り方」

2007年09月19日 | 随想・日記

 

    

      Ⅲ 詩と歌謡の作り方

 

 先日「宮澤賢治の詩の世界」で佐藤惣之助を採りあげていた。

わたしは阪神フアンでは無いが、今年の春、

巨人との開幕戦を見に行った。

三塁側の為、黄色のメガホンに囲まれての観戦であった。

勿論「六甲おろし」の大合唱を肌身にしみこまされて帰ってきた。

 

 わたしは佐藤惣之助や辻潤についてはよく知らないが、

 三十一年版「賢治全集」の「宮澤賢治研究」(33年8月15日発行)に、

佐藤惣之助が「宮澤賢治」と題して、

また 辻の「情眠洞妄語」が前の頁研究欄に見られる。

 

 さて 『詩と歌謡の作り方』が「佐藤惣之助全集」に入っているかどうか。

此処では、昭和十三年八月二十二日 新潮社から発行された(写真参照)本を紹介したい。(もしこのことに関して、何方かお書きになられていたら教えてくださるよう、お願い致します。)

 

   第七章 詩の類別と主題の方向  ()の所

 「紀行詩と田園詩」の項目の中に、賢治の詩、

 「雲の信号」を採り上げている。(次回の写真参照)

 

  「真に日本の田舎の味を生かしてくれる詩人が欲しい。

  そこによい耕作の歌が生まれる、労農の讃歌が生じ、

  収穫の頌歌が現れて来よう。<途中略>

  私はいつも草深い農村から・・・・・新しい宮澤賢治や

  山村暮鳥が生まれてくるのを期待している。」

 

  ただ是だけの事ではあるが、十字屋版の全集がまだ出版ていなかった頃であるにも拘らず、佐藤の賢治の詩にたいしての深い認識が窺われる。


古書 三題 [化学本論]

2007年09月19日 | 随想・日記

 

        Ⅱ  (50)  化学本論

 

  静かなること林の如き ギップス先生が其の不朽の研究を公にし、

  疾きこと風の如きファントホッフ先生が三大論文を連発して天下を

  驚倒してより早四十年にならんとす。(序言より)  

   「化学本論」はこの書き出しで始まっている。

 

 NHKの大河ドラマ「風林火山」が放映されているが、「どんど晴れ」はご覧になられている方はおられても、こちら「風林火山」は賢治大好きの皆さんはどうでしょうか。私は見ています。

 

 この「化学本論」は、『兄の机にはいつも化学本論上下と、国訳法華経が載っていて、どれほどこの本を大切にしたかしれなかった。」(兄のトランク 222頁より)とある。

 

「化学本論」は上下二冊本ではなく一冊本で、「奥田弘宮澤賢治の読んだ本

ー所蔵図書目録補訂ー」 (50)番に記載されている本でもある。 奥田は「訂正八版」を記している。

 賢治記念館にも確か八版の物が展示されていた。(これは十年程前で、現在は換わっているやも?)

 

 賢治が高農時代に「化学本論」を求めたとすると、大正四年から同七年の間であろうから、奥田が記している「訂正八版」では無いであろう。この八版は大正十四年五月十五日発行である。「兄のトランク」には国訳法華経と[一緒に?]机に載っていたとするなら、少なくとも大正九年の五版頃までの物であろう。 

 

 写真の四冊は、向かって左から 三版 五版 八版 十版 である。

 大正六年十月二十三日訂正三版   (正価金五円五拾践)

 大正九年八月一日 第五版発行    (定価金八円五拾銭)

 大正十四年五月十五日訂正第八版発行 (定価金拾円)

 大正十五年八月二十日訂正第九版発行 (定価金拾円)  {奥付の一部}

 

 第六版序言にも記されているが、内容の増加や索引の追加が行はれている。大震災にも触れているが、当時の出版物は、震災の前と後からのものとでは、どの本も大幅な違いが見られるように思われる。

 

  追記 この「化学本論」に、興味がある方にお貸し出し致します。ご一報下さい。

 

 


古書 三題 無何有郷通信

2007年09月19日 | 随想・日記

 

 

        Ⅰ 無何有郷通信記

 

 宮澤賢治ー所蔵図書目録ー に記載されている 『(70) 世界大思想全集』の第50巻には、「カンパネラ」 「モーア」 「モリス」 「ベーコン」の著者の書が翻訳されている[写真参照]。

 

 カンパネラやモリスが載っているこの世界大思想全集が、残念な事に昭和四年八月二十五日発行である。この本が大正十三年頃までに世に出ていると、私にとっては「銀河鉄道の夜」や「農民芸術概論綱要」の制作時期に合致するので参考になるのであるが。

 

 ウイリアム・モリスの「無何有郷通信」の訳者 村山は、この本の序言に「昭和三年三月末 南総の仮寓にて」の記載がある。おそらくこの「全集」以前の発表は無かったと考えられる。このウイリアム・モリスの「無何有郷通信」も完訳伏字無しである。

 

 


沢内

2007年09月12日 | 随想・日記

 

  お盆で帰省したときに、

 岩手県と秋田県の県境 沢内に行ってきた。

 深澤晟雄(まさお)と太田祖電の郷に、きゅうに行きたくなっての事だった。

それに碧祥寺博物館を見たかったからでもある。

 

 沢内村の福祉行政の点火薬にもなった深澤は、「村民の生命を守るため私の生命をかける」として

僻村の村民の、健康を守るための活躍をした。そして「生命村長」と呼ばれた。

 深澤の人道主義・理想主義に深い影響を与えたのは、仙台時代の恩師 阿部次郎であった。

「三太郎日記」や「人道主義の思潮」などの名著を残した阿部次郎は、

当時東北大学で倫理学を教えていて、「人間の尊厳」「人格主義」の思想形成を

深澤に影響を与えたという。

 

 深澤の想いを発展継承した人物は太田祖電である。

真宗大谷派・碧祥寺の住職でもある。深澤哲学の一番弟子ともいわれた太田祖電は、

大谷大学を卒業後に、ブラジルでの生活体験もある。彼は35歳で村の教育長に、そして

村長に当選する。以来四期何れも無投票での村長であった。(「沢内村奮戦記」に詳しい)

 

  碧祥寺参道入り口前の酒屋さん兼ドライブイン食堂に、車を止めさせてもらい、

 碧祥寺参道のゆるやかな上り坂の杉木立をいくと、あまり立派とはいえない山門の先に、

真新しい本堂が建っている。こちらわ立派である。

 中では法要中であった。帰り際にもよったが、他のご親族の法要がはじまるところであった。

そのため本堂裏の「絵」は拝観出来ずに帰ったのは、心残りであった。

 本堂左奥に、幾つかの石塔があった。最初に目に入ったのは、「是信房」像碑である。

 石塔は「親鸞聖人 是信房 御尊像」の銘が刻まれている。

 

 博物館所蔵品は、境内三箇所に分散して建てられている建物の中にあった。

この旅でわたくしが是非見たかったのは、「隠し念仏」資料であった。

森口多里著「町の民俗」の第五章 余録 陸中の隠念仏の挿絵に、

「おれんぎ」の画が載っているが、それの実物を見たかったのである。

 有りました。「隠し念仏」資料はそう多くは無いが、外の実物もみられた。

 残念である。写真の撮影は禁止であるのは良いが、パンフレットや、

館内の資料は出していない、との事だった。でも 見られて良かった。

 「町の民俗」 このブログでの約束は、ハンパな採りあげ方で終るが、

この場を借りてご勘弁願うとします。

 

 沢内の山々に霞がたなびいて、日本画の世界であった。

「ここはいまも冬は大変な豪雪地帯ですが、半世紀前とは変わった。」と

お店のおばさんが語られていた。

 

 追記  ニュース速報を見て (ブログ記入後 四時間後の追記)

  ~~驚いた。一国の首相が「気まぐれ病気」(官房長官記者会見でのコメントのひとつ)で、

 職場放棄だ。市町村の代表者や、他人の人命に関わる仕事に携わる人々は、

自分の「生命をかけ」て、それをまっとうしようとして生きているのに。

 これが「美しい国」の人としての人生ではないか、と思う。哀しい。

 

 


滝清水神社

2007年09月11日 | 随想・日記

 

 宮澤賢治の自耕地「下ノ畑」に行く道は、

賢治詩碑の南側の坂道の他に、もう一つの道があった。

 

 豊澤橋を渡り、向小路から東に向かって、

兵舎わきの道を通り、滝清水神社の所から行く道であった。

 かってとはまるで変わってしまったので、思い出してみたい。

 

 通称「オミンチャン」(滝清水神社)の北側の坂道を東に下ると、

そこの左 土手北側真下が、豊かな水量の豊沢川が流れてきていた。

 豊澤川は、蛇行しながら神社下のすぐ近くに来ていた。

 

 神社裏の道ひとつ隔てた西側には、広い兵舎があり、

弘前第三十八連隊の工兵部隊が、盛岡から訓練をしにきていた。

兵隊は北上川から小型鉄船で遡り、この豊澤川まで何艘も乗り込んで来て、

訓練演習をしているところでもあり、また 朝晩のラッパがよく村中に響いていた。

 

 神社の東側、崖上にギリギリの所に、神楽殿があり、

その崖下には、豊富な水量の湧き水があって、春まだ雪が有る頃、

その湧き水で、村人が「ゆきな」などを洗いながらの、寛ぎのオアシスの所でもあった。

 

 この「オミンチャン」から、東南へ土手のうえを行くと、

賢治の自耕地の先、「渡し場」に通じる、土手上の路があった。

 

 豊澤川が北上川に落ち合ふ所と、土手の道のすすき原の三角地帯は、

われわれ子供等のかっこうの遊び場で、また 川にはいろいろな川魚が多くいた。

 土手の西側は、芝生のような草原で、その真ん中ごろに一本の古木の赤松が生えていた。

 北上川近くの土手は、べんべろ柳や熊笹で、洪水から土手を守っていた。

 土手の道の途中北上川沿いに、幾つかの小さな船着場があり、

向小路の人たちの小船が繋がれていた。

 

 外台をより多くの水田にする計画に、賢治の「下ノ畑」に行く途中に、

賢治の「羅須地人協会」撤退後、水揚げ場が作られた。(詩にも詠われている)

その場所が何処であったかを探したが、見つける事が出来なかった。

 

 外台の水田は、滝清水神社から賢治詩碑の崖下までの、湧き水や、

かっぱ沢を通って流れ込む小川、それから釜場からの小川などや、

南城の崖下の湧き水などで、水田を可能にしていたのであった。

 しかし 外台の中央部の大半は畑であった。

 

 [ 子供のころ、春の麦畑のひばりのきゅうこうかさきの巣を、荒らしまわった。

冬は、野うさぎのわなをつくり、初夏には桑の木の枝の、きじ鳩の巣の卵をねらいうちをした。]

 

 台風での水害のときは、堤防用の土手は何の役にもたたなかった。

 外台の南端は、北上川が獅子鼻の所で古河と繋がっていて、

北上川の氾濫は、逆流の為防ぎようが無かったのである。

外台は川の流れと反対方向から、どんどん浸水の泥水が入ってくる。

 賢治の詩「春と修羅 第三集」にも詠われている。

 

 

 


下ノ畑

2007年09月09日 | 随想・日記

 

 久々に「下ノ畑」に行ってて見ました。

 これについて一言。

 ここの標識の場所(写真画像の場所)は、

賢治の耕した場所ではありません。

 それに北上川の岸辺は、

当時とはまったく一変しています。

 

 {標識を建てる時に豊川氏(桜の人)に、「この場所は違いますが、

詩碑訪問者が、「下ノ畑」を訪ねて来られた人々の為を思い、

違いを承知で建てたとの事です。また、「耕地面積」も紛らわしいが、

現状の状態でご覧になって戴くしか無いでしょう}との事でした。

 

 「春と修羅 第三集」に詠われていたころの土手は、

川岸近くまで芝生のような草はらであった。

川は、賢治自耕地からの少し下流の対岸への「渡し場」までは

ゆったりとした流れで、「渡し場」の目標の四本程の松の木、

そこからは「獅子鼻」の鬱蒼とした森が良く見えた。

 なだらかな草原の土手から川岸の玉砂利へは、

夕方、ときには馬を洗いに来ている光景が思い出される。

 「渡し場」の少し下流は、川底が高くなっていて、

その先からは、川の流れが急になり、その勢いで

「獅子鼻」の岸壁に激突し、川は左に流れていた。

そこ、「獅子鼻」の崖下は、いつも凄まじくうずを巻いていた。

 その昔北上川は大きく蛇行していて、

賢治詩碑の下を通って、南城小学校の下から

西十二丁目崖下を流れ、「獅子鼻」から更木を通り

黒沢尻(現北上市)へと流れていた。

 [ その名残が ふるかわ まるこぶち(賢治詩碑の南側)

南城小学校下とその先にも、大きな池が有った ]

 川の流れが変わり、「獅子鼻」への激突となったが、今は

「獅子鼻」の岸壁は姿を変えた。岸壁の岩肌の上は、

賢治童話に出てくる鬱蒼とした森であったが、今は見られない。