ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

「日刊いわて」

2012年01月10日 | 随想・日記

 「岩手民報社」の編集印刷発行人は桜の伊藤謹吾になっているが、実質的には佐藤紅歌であつた。

 昭和二十六年の暮れに「岩手民報社」を設立し、翌年に創刊した紅歌は、新興製作所の谷村(たにむらではなくヤムラと読む)や佐藤隆房等の宣伝マンとして資金を得て活躍した。八十二歳でこの世を去ったが、昆は紅歌を新聞人と記しているがわたくしはゴーストライターの一面も有ったと思う。

    昭和十年に八木英三が「花釜日の出新聞」(日刊)創刊。編集長は松田浩一であり、編集委員には 宮澤吉太郎がいたという。(旧姓は臼崎・花農ー師範ー教員)

≪あの戦争をしたがっているうちからは、「岩手中央新聞」と「「岩手タイムス」と「花釜日の出新聞」の合併を要請する。その結果として、「日刊いわて」が誕生する≫〈19頁)「第一次」と云う。≪社長佐藤忠治、副社長八木英三、編集長佐藤紅歌、営業清見浩平で、経営の実権は清見と八木であった≫と云う。≪終戦後八木英三は「週刊読む岩手」を創刊し、清見は「日刊いわて」を復刊している≫その後昭和十六年十二月二十八日に「新岩手日報」の買収される。

 再々度復刊した「日刊いわて」は、一部では有りますがコピーを拡大してご覧戴きたい。ここではこのブログで以前にも記した事が有るが鶴田辰蔵に付いて触れたい。

 社主鶴田は御田屋町で印刷会社を経営していた。花札の印刷は業界のトップであった。外国人までにも売り上げを伸ばしていたという。彼(大正五年六月十二日生まれ)当時は、若さと豪放磊落な面があってそれに人に頼まれる嫌と言えないタイプであったといえようか。清見が頼って行ったがこの新聞は前「日刊いわて」の4343号までとは違い長続きはしなかった。

  つづく


佐藤紅歌と「岩手民報」

2012年01月04日 | 随想・日記

 

     佐藤紅歌についての覚書

 ≪佐藤紅歌氏・・・・本名佐藤源一(明30・1・13~ )は賢治とは小学校以来の友人。岩手毎日新聞・岩手日報・岩手タイムス・河北新報・岩手新報等の記者を次々に経て、現在は岩手民報社に勤務。書簡230を参照≫    「校本 宮沢賢治全集 第13巻 596頁 昭和49年12月20日発行」より

      写真コピーは、昆 憲治「岩手県の郷土紙物語:敗戦後発行の県中南部の郷土紙 1994・3)より

 上記によると、昆氏は岩手民報社の発行所が花巻町桜町2丁目で、編集兼印刷発行人は伊藤謹吾であるが、佐藤紅歌と同一人物と思ったが、やはり佐藤と伊藤は別人であろうとされて、伊藤謹吾はなに者か。と記されている。(文 要約しています)

 紅歌に付いては追々記するとしてここでは伊藤謹吾に触れたい。

 謹吾については桜の人なら知らない人はいないと思うが、佐藤隆房の自宅の近くに住んでいて、獣医(?)で伊藤熊蔵(克己の父)と戦時中賢治詩碑等でよく馬の交配を行ったりしていた。(詩碑の南側の松の間隔がてごろであったからであろうか) また 魚屋をしたこともあり、良く言えばなかなかのやり手人であった。紅歌ではなく、謹吾は別人である。

  つづく