日本文学アルバム 12 発行所 (株)筑摩書房 1968・6・30発行
桜の河童沢にあった宮澤家の「別荘」の写真を、上記の「アルバム」からご覧頂いた。(小さな写真はクリックすると画像が大きくなります)
最近ブログ等で、賢治自耕地の「下ノ畑」のポールや、柳の大木等に覆われた北上川岸辺の写真を良く見かける。昭和二十年頃までは、前に見て頂いた詩碑写真下「羅須地人協会」の「家」の写真 右上に見られるように、北上川岸辺は草はらのなだらかな土手で有った。
写真画像より少し下流に、外台の渡し場があった。「船場(ふなば)」と言っていたが、矢沢の島地区との交通路であった。渡し船賃は当時七銭で有ったと聞く。
わたくしが子供の頃のわが家の畑が今でも外台に有るが、「カラ」の畑と呼んでいた。「カラ」とは川原の事である。桑の木を、ある距離をおいて植えられていて、間隔をおかれた畑の畦には秋には麦を、春刈り取り後には大豆を蒔かれていた。大豆の双葉の芽が出た頃キジバトに食い荒らされたはらいせに、桑の木の鳩の巣を見つけては取り壊した。桑の品種は「伊達桑」と言ったそうだが、埼玉県の桑畑のように、びっしりと間隔無く植えられてはいなかった。関東の効率の良い桑畑を見て感じ入った事を思い出す。
外台に付いては菊池氏が「詩碑附近」で詳しく説明されていたので省略するが、外台地名に付いて少し指摘しておきたいことが有る。「校本宮澤賢治全集」第十四巻伝記資料(1072頁)花巻付近概念図(大正初期)に、外台を下台と記されてある。これは訂正するべきである。明治初年頃 外台村の字地は、 上台(ウワダイ) 丸小渕 上川原 下川原 外川原 であった。上台を除いた四地区を外台と言うのだが、賢治詩に下台と書かれていたからといって、地図までを下台とされているのは如何なものか。「校本全集」「春と修羅三集」の下台にルビをカッコ付きで(トダイ)と付けられていたが「新集」本にはるびはやめられた。このル ビの件については「凡例」に明記されているが、地図の記述言語は詩的言語ではいけない。この地図は研究者に良く使用されているので、一言記した。
ところで話がちがうが、和田文雄氏の「ヒドリ神社と宮沢賢治」に、書き出しの二行目に「石巻線」と記されている。
ヒドリ神社は花巻から四十六粁のところにある。銀河ドリームランド線と名付けられた石巻線九十粁の中間点である。
ヒドリ神社は遠野市土淵に村社として鎮座している。 以下略
「石巻線」は明らかに「釜石線」の間違いであるが、賢治の雨ニモマケズの「ド」と「デ」と異なる。和田氏は、「これは印刷構成のときのミスプリであり、『釜石線』のことであった」とも云えようし、「あれは私の思い違いで間違いであった」ともいえるであろう。これは科学や歴史で使用される記述的言語と云うか情報言語であるために検証が可能であるが、詩的に述べられた(ド)の言語と同一にされるべきものではないと思う。繰り返しになるが外台も地図上には、詩的な言語を其のまま使用されてはいけないと思う。
横道にそれたが、(株)コールサック社 社長が入沢氏にお送りされたメッセージを紹介しておく。http://coalsack2006.blog79.fc2.com/blog-entry-15.html
誤解をされると困るが、なんらの他意は無い。入沢氏にお礼も出さずにいるので。