ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

外台と北上川岸辺

2011年06月29日 | 随想・日記

      日本文学アルバム 12  発行所 (株)筑摩書房 1968・6・30発行

  桜の河童沢にあった宮澤家の「別荘」の写真を、上記の「アルバム」からご覧頂いた。(小さな写真はクリックすると画像が大きくなります) 

 最近ブログ等で、賢治自耕地の「下ノ畑」のポールや、柳の大木等に覆われた北上川岸辺の写真を良く見かける。昭和二十年頃までは、前に見て頂いた詩碑写真下「羅須地人協会」の「家」の写真 右上に見られるように、北上川岸辺は草はらのなだらかな土手で有った。

 写真画像より少し下流に、外台の渡し場があった。「船場(ふなば)」と言っていたが、矢沢の島地区との交通路であった。渡し船賃は当時七銭で有ったと聞く。

 わたくしが子供の頃のわが家の畑が今でも外台に有るが、「カラ」の畑と呼んでいた。「カラ」とは川原の事である。桑の木を、ある距離をおいて植えられていて、間隔をおかれた畑の畦には秋には麦を、春刈り取り後には大豆を蒔かれていた。大豆の双葉の芽が出た頃キジバトに食い荒らされたはらいせに、桑の木の鳩の巣を見つけては取り壊した。桑の品種は「伊達桑」と言ったそうだが、埼玉県の桑畑のように、びっしりと間隔無く植えられてはいなかった。関東の効率の良い桑畑を見て感じ入った事を思い出す。

 外台に付いては菊池氏が「詩碑附近」で詳しく説明されていたので省略するが、外台地名に付いて少し指摘しておきたいことが有る。「校本宮澤賢治全集」第十四巻伝記資料(1072頁)花巻付近概念図(大正初期)に、外台を下台と記されてある。これは訂正するべきである。明治初年頃 外台村の字地は、 上台(ウワダイ) 丸小渕 上川原 下川原 外川原 であった。上台を除いた四地区を外台と言うのだが、賢治詩に下台と書かれていたからといって、地図までを下台とされているのは如何なものか。「校本全集」「春と修羅三集」の下台にルビをカッコ付きで(トダイ)と付けられていたが「新集」本にはるびはやめられた。このル ビの件については「凡例」に明記されているが、地図の記述言語は詩的言語ではいけない。この地図は研究者に良く使用されているので、一言記した。

  ところで話がちがうが、和田文雄氏の「ヒドリ神社と宮沢賢治」に、書き出しの二行目に「石巻線」と記されている。

    ヒドリ神社は花巻から四十六粁のところにある。銀河ドリームランド線と名付けられた石巻線九十粁の中間点である。

   ヒドリ神社は遠野市土淵に村社として鎮座している。   以下略

  「石巻線」は明らかに「釜石線」の間違いであるが、賢治の雨ニモマケズの「ド」と「デ」と異なる。和田氏は、「これは印刷構成のときのミスプリであり、『釜石線』のことであった」とも云えようし、「あれは私の思い違いで間違いであった」ともいえるであろう。これは科学や歴史で使用される記述的言語と云うか情報言語であるために検証が可能であるが、詩的に述べられた(ド)の言語と同一にされるべきものではないと思う。繰り返しになるが外台も地図上には、詩的な言語を其のまま使用されてはいけないと思う。

 横道にそれたが、(株)コールサック社 社長が入沢氏にお送りされたメッセージを紹介しておく。http://coalsack2006.blog79.fc2.com/blog-entry-15.html

 誤解をされると困るが、なんらの他意は無い。入沢氏にお礼も出さずにいるので。

 


詩碑の北側は松林

2011年06月27日 | 随想・日記

 

 わたくしの知っています「詩碑」広場の北側は、沢ぎりぎりまで写真に見られる程の太さの松林で、小木は刈り取られて、熊手で松葉を集められるようになっていた。

 今駐車場のある所は水田であったが、河童沢に流れている小川の南側も(現通路の南側)松林で、何処の松林も当時は「ごんどさりゃ」と言って、松林の保護を兼ねた落ち葉の収束地であった。(日本文学アルバム宮澤賢治 1963.6.30 家の周りに束ねて立てかけて有るのはそれです)

 建物の家は引っ越されてからは、釣瓶井戸とポプラの木のある北側は、広場から三四十センチ下がった境目に、大きな実のなる数本の栗の木があった。松林との境であり、雨の降った時の後にはつるりと滑ったから、赤土だったと思う。東側と南に面した崖には、杉の木が植えられていたが、あまり大きくなかったと思う。忠一さん寄りの崖は、雑木林だったようの思うが、定かではない。

 「詩碑」から外台に行くのには忠一さんの庭を通っていったが、広場の東南角を降りることもあった。たぶん昭和の十四五年頃だったと思う。

 「詩碑」の松林は、なんとも言えない、ス~ともゴ~とも聴こえる風がいつも松の梢で鳴っていた。

 佐藤隆房著「宮澤賢治」(昭和17年9月8日発行)詩碑除幕式の写真に見えます右側の杉林は、松林と違い朴の木なども生えていて、その大きな葉を何枚かを採った事が有る。正面に見える杉の木は、清Iさんの屋敷の木です。太平洋戦争中になると、忠一さん畑には、リンゴの木が植えられていたのか、よくわからなが写真にはそれらしくも見えますがどうだったのでしょうか。

 「詩碑」に  野原ノ松ノ林ノ影ノ  とあるが、ここの場所は野原では無かったが、素敵な松林に魅せられた「八景」の高台地であつた。

 (桜の八景地区は、河童沢へ流れている小川の境の南側の小高台地を言う)

 

 ※ 「宗教哲学」については日を改めます)


河童沢の宮澤さん

2011年06月25日 | 随想・日記

 

 

 菊池忠二氏の「詩碑附近」は「宮澤賢治研究叢書」にもとりあげられて、あまりにも有名です。

わたくしはここではこの「詩碑附近」についてのいくつかの事柄の感想を述べたいと思います。

 わたくしは花巻町時代まで、つまり市になる以前までしか、桜には居りませんでしたから、わたくしのことを花巻市出身と言われると、ちょっと困ってしまうことがあります。

 しかし、そのせいか「詩碑附近」の事は、私どもが「宮澤さん」と呼んでいた河童沢の突端の賢治さんが居られた近景は、その頃(詩碑が出来た頃)の状況とが色濃く残っていたものと思います。そして今でもその頃が記憶に鮮やかにわたくしの思い出と同時に蘇ってきます。

 菊池氏が「詩碑附近」をお書きになられた昭和三十四年頃になりますと、「詩碑附近」は、わたくしの印象とは少しく変っております。場所の近景は又の機会に述べたいと思いますがここでは、「詩碑附近」に書かれています忠一さんのことに触れたいと思います。

 忠一さんが宮澤さんからいただいた本に、波多野精一の「宗教哲学」や「心理学」などの本とあります。写真の波多野精一の「宗教哲学」は、初版は昭和十年ですから、この本ではなく同じ著者の本で有れば「宗教哲学の本質及び其の基本問題」でしょうか。ですからこれはあまりはっきりしていないのです。

 忠一さんも「三十数年」経っている頃のことや、菊池氏の四十年近くの経過してからのことは、今ここで書いているわたくしなどは、もっと・最も危ないものですがご寛容の程をお願い致したい。

 ところで忠一さんや清さんについては、わたくしは、克己さんや慶吾さんこの二人とはだいぶ違った印象を懐いています。先輩にこういうことを申し上げるのは失礼か知れませんが、先の二人は純朴な農人、あとの二方にはあまり良い印象は持てませんでした。

 それはともかくとして、詩碑が出来てから詩碑の入り口からの路の南側は忠一さんの畑で、リンゴの木を植えてからは簡単な垣根が作られましたが、垣根の無かった頃には、忠一さんのお母さんが、朝早くから草取りをしていて、「へびがいたら、こっちさぼあねでけろや」と声を掛けられたのが思い出される。北側の沢の藪から、畑の野ネズミを狙って、蝉の穴の多い砂利の無い通路に寝そべっていたのが思い出される。

 波多野の「宗教哲学」について石原謙が、何かに評論を書いていたのを読んだことが有るが思い出せない。

 つづく