ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

「アザリヤ」と中村さんにくれた「実験花卉園藝」メモ

2014年03月17日 | 随想・日記

 

 「実験花卉園芸」初版は大正5年6月であるから、大正6年7月に「アザリア」第一号がでたというと何らかの関連があるのであろうか。文語詩一百篇「山躑躅」校異に「変種たしかにあり」と詠われているように、明治・大正時代の牧野「植物図鑑」には石楠科にみられるとうりであった。しかし牧野の「日本植物図鑑」(北隆館大正十四年九月発行)や東京博物学研究会編纂「植物図鑑」(初版は明治四十一年・大正十一年三月・十九版)には「azaiea」名は見られない。

  文語詩一百篇「山躑躅」の論考は小林俊子氏等を見られたい。

                

  こちらはおまけ⇒

(上巻からのコピーです) 


「賢治研究」70

2014年01月24日 | 随想・日記

             

         賢治研究70 Ⅱ・Ⅲ頁の写真

 先週表題の「賢治研究 70」を賢治研究会から送ってもらった。どういうわけかこの号だけがわたくしの手元に無かったのである。紛失か知人に貸すかしたので、無いとばかり思っていた。今度送られてきてずいぶんさがしていた70号の上記の写真を見て、確かにこの70号は私は見ていなかったのを知った。会が私の処には送付されていなかったのであろう。なぜなら「賢治愛読の園芸書3冊」の写真を見て驚いたのである。70号に中村ノブ氏(旧姓安藤・南城小学校第一回卒業生大正13年3月25日)が、賢治からいただいた本であるという。この三冊本はわたくしのところにもあり、この70号の写真をわたくしが見ていたなら、「わたくしの賢治蔵書ノート」に記して有る筈であったのであるが。

       右は上巻最初の挿絵

 わたくしは 「発行所褒華房 実験花卉園芸藝」三冊の、花壇に必要な当時としては新品種の花卉を列記してあるのと、「牧野植物図鑑」には見られない各行の英名及び別名や、項目書き出しの詩的解説文が、賢治でなくとも魅了される文であるから好きである。なんといっても新品種の解説と写真が豊富であるからでもある。

 70号を送られてきたその晩に「座談会 賢治像・賢治作品の評価をたどる」(164~193頁)をさっそく読んだ。入沢・杉浦氏等の発言には何かの機会があったなら思ったこと‥を語りたいものだ。


陸中の隠念佛

2013年12月16日 | 随想・日記

   「旅と傳説」に掲載された「陸中の隠念佛」は、

森口多里著「町の民俗」の第五章 餘禄 「陸中の隠念佛」としても掲載されている(昭和十九年六月発行)。            

               

  以下のコピーは発行所三元社の「旅と伝説」からである。 昭和九年七月発行 九月号 「旅と傳説」に「陸中の隠念佛 北野 壽門(樋口正文)名で掲載されたもの。 

        

 樋口氏は「水沢市史 民俗編」「御内法(かくし念仏)水沢派」の執筆者である。(水沢市史6民俗第六章 民間信仰 第八節506~533頁 S53・12・28発行)

 

  [文一部訂正]    


「隈」と「熊」のこと

2013年11月09日 | 随想・日記

             

 ずいぶん前の事である。清六さんの処へお邪魔した時である。熊蔵さんと圭吾さん(圭吾の字が違うかもしれない)の話になり、その時そして「隠し念仏」の話になった。筑摩書房の「31年版」と「42年版」の、「隠し念仏」関連についてであった。

 「憎むべき『隈』辨当を食ふ」と「隈」田を植ゑる」や(隈はしきりにもどかしがって)は、詠んでいる場所と人物が異なることにおよんだ。弁当を食ふの処は外台の川原での出来事で熊さんであるが、しきりにもどかしがっての最後から五行目の「城あとのまっ黒なほこ杉の上には」は小舟渡辺りから花巻城跡を観た作ではないかと云う事になった。小舟渡の佐藤ジッコに人物が改変同化されていると。それから話が進んで清六さんは、文語詩[秘事念仏の大師匠][一]の稿異に『憎むべき「寅」飯をはむかも』とあることなどから、随分気を使っていたようなので、『あまりにもあからさまなので「熊」を「隈」にかえておぎあんすたんすじゃ』ということだった。「31年版」と「42年版」は、そのために「隈」に統一されている。

 十字屋版の第二巻 文語詩稿 壱百篇 に関連(秘事念仏の大師匠)がでているが、「隈」に付いての関連詩稿は、「組合版」にも小倉さんの「角川版」にも載って無い。校本全集で初めて整記にでた。これらの関連詩は「鉛筆できれいに書かれたもの」のようである。

 ツイッターに 

入沢康夫 ‏@fladonogakobuta 11月5日

@fladonogakobuta (続き)なるべき作業で、できるだけ早い時期に、新進気鋭の研究者の中から、「よし、それは自分が(もしくは、自分たちが)やってみせよう」という方が現れて欲しいものだとかねてから願っている。

 入沢康夫 ‏@fladonogakobuta 11月5日

宮沢賢治作品の遺稿群については、校本・新校本全集によって、その逐次変化が厳密に跡付けられているが、それらの作品の作者没後の刊行物(とりあえずは諸全集)における収録本文や異稿の差異・変化を綿密に跡付ける作業は、いまだになされていない。これは、賢治作品享受史の重要な基礎と(続く)

 入沢康夫 ‏@fladonogakobuta 11月3日

@signaless5 またまた念の為に申しあげますが、「隈」・「熊」に関連するどの詩稿にも、賢治以外の人の手による改変の跡は一切存在しておりません。

小生は研究者でも若くもない。入沢氏の記事を拝見してのメモである。清六さんからは色々なものを貰った。写真はその一つである。中身は原稿複写版十二枚である。

 


つぶやき

2013年10月11日 | 随想・日記

 

   入沢康夫氏がツイートに、私にとってはたいへん耳の痛いことが書かれていた。

 

   自分のタッチする場をできるだけ「賢治が書きのこした物」に限って、伝記的な事実については、口を慎む事。

   これが私の基本的姿勢で、今日まで、まずまずこれでやって来られたと思っています。

   伝記的考証や穿鑿はまったくもって不得手で、気がのりません。

 

「穿鑿」は別にしても、賢治研究あらゆることについて氏の右に出る人はいないでしょうが、上記の言葉はわが肝に銘じたい。

 

 

 

 


農学校の教師を辞めてからの宮澤賢治ー購入された本代

2013年09月24日 | 随想・日記

       (画像はクリックしてご覧ください)

      

      

 上記書は 「宮沢賢治の読んだ本ー所蔵図書目録補訂ー 奥田 弘」の初頭にある蔵書番号(27)(28)。孰れも豪華本である。「肥料学」は定価9・50円 日本稲作講義の定価7・50円で、この本の初版は大正15年2月である。(この「日本稲作義」は賢治詩集の「第三集の時代」に購入された。羅須地人協会時代の解明に最も重要な書である。大工原著「土壌学講義」とあわせて後に触れたい)

 宮沢賢治は大正10年以降に買い求めた定価5円以上の書籍は上記の二冊と (44)河野著「代数的解析論」  5・00円昭和3  (106)「漢文大系」12巻×6.00円=72円大正14 (126)亀谷著「華厳哲学研究」5・00円大正11  計99円である。他に ① 5円以下計28・6円。② (64)全集世界地理風俗大系34巻×2・8円 計95・2円 昭和5 (80)東西素描大成16巻×3円計48円昭和4 (82)日本風俗大成10巻×3・5円計35円昭和4 (83)世界裸体美術全集6巻×3計18円昭和6 (84)現代漫画大観16円昭和3 その他全集物計400円を超える。

 宮澤家としての購入図書もあろうが、図書購入費としては大変な金額である。大正15年なかば以降の図書購入額はなんと690円を超えている


竜巻のこと

2013年09月06日 | 随想・日記

     

 竜巻のニュースを見ていたら、番組の解説者のなかには「日本では竜巻見られなかった」等の発言があった。

小川顕道著 「塵塚談」上之巻に、上野の不忍池で竜巻があったことが記されている。

同所竜巻のこと」として概略いかのように。

  同不忍池より天明年間(1781~1789 当時の解説あり)竜巻ありけり。佐渡、越後、越中の海中には、夏の日、竜騰ること度々ありと、その節は虚空より黒雲下り来れば、海中の潮水、滝を逆に掛けしごとくに逆巻きのぼり、黒雲中に入る、ー途中略ー その如く不忍池より黒雲逆巻きのぼり竜騰りしと見え、近辺家屋を損じ、火の見櫓など倒せしなり。ー略ー かく書きぬれど竜は雷にひとしく奇なる物、吾党のさらに測り知るところの非ず。  

 現今のようにではなかろうが、「津波」も「竜巻」も昔にもあった。無かったのは「原発」のようなものである。


小学館の「宮澤賢治」

2013年04月23日 | 随想・日記

 

                     

 市村の「宮澤賢治の歌」全文を紹介したが、戦時下の賢治観がかいま見えた論であった。「昭和十八年四月二十四日、靖国神社へ御親拜あるかしこき日の書」であると云う。

 さて、「宮澤賢治」のゴーストライターの件であるが、誰であったのか。桜の佐藤自宅に来られた人々のなかの誰かであろう。このなかには以前記したように飛田は不在である。事情に明るい森は、佐藤の「宮澤賢治」が出た翌年十八年一月三十日に小学館から、「装幀 絵 深沢紅子」で、同じ題名で出版されている。この二冊については色々と考えさせられるが、森では有り得ない。両書の違いもさることながら、尤適任者であるのは紅花(ママ)であろう。清六さんも森さんも佐藤の「宮澤賢治」には資料やアドバイスはされたであろうが、ゴーストライターからははずれる。(詳細はここでは触れない)

  『日本新聞年鑑』第一巻(大正10年版)。日本図書センター、1985年12月刊。p123

内容:「日本記者年鑑1921」『新聞及新聞記者』 [大正10年}10号、2巻9号(通巻12号)大正10年10月1刊の複製

佐藤紅歌(本名源一)については次回に記す。


市村宏「宮澤賢治の歌」

2013年04月15日 | 随想・日記

   

 

         

 

『書物展望』昭和十八年六月号に、市村宏の「宮澤賢治の歌」があり、以下のように記識されているところがある。本文は以下の写真をご覧になっていただくとして、冨山房から出版された「宮澤賢治」五版以前には市村の名はないが、「『宮沢賢治』のできた頃」と題して昭和四十五年四月二十五日が、一般の人々にはみられた。

               

 市村は「宮澤賢治の郷里岩手県花巻町を訪ねたのは昨年の冬の最中同地では旧正月を迎えるための暮市の最中であった。」とあるが、昭和十八年一月の二十日から二十五 六日ころ花巻に来たのであろう。佐藤博士の桜の自宅に、清六さんや森荘已池・菊池暁輝・佐藤紅花(歌)等「賢治の会」の幹部の方々が集まってみえたとある。そして賢治という人のいろいろな面が、「これらの方々の口から交々描き出されてそれをお聞きしたくて来たわたしには実になによりもたのしかった。またこの時はじめて佐藤紅花(歌)氏の漏れた故人の少年時代の逸話の数々が、隆房博士の名著、「宮澤賢治」の内容を一層豊富にしたことも特筆してよいことであろう。」とある。

 

 つづく

 

 

 


飛田三郎と「宮澤賢治」

2013年03月31日 | 随想・日記

   3月25日に「賢治の花園」をとりあげた。

 この「賢治の花園」で、著者進氏は、飛田三郎とのことを以下のように書かれている。

 

飛田三郎さんという方が書生として付けてもらっていた。

父はその方に口述して原稿を書かせ、昭和十七年九月に出版したのが「宮沢賢治」でした。

これが賢治の生涯を伝える最初の書籍だ。と記されている。(90頁の要約)

 

 「『宮沢賢治』序」には、昭和十四年二月脱稿して以来、再考と補遺とに日お送り、今日出版の日に会うことになりました。と 隆房が書いている。

 さて、ここでは飛田がライターであったかどうかである。

飛田は「宮沢賢治研究 1号(編集発行人村井勉1948・3)に、「思い出 1」の冒頭に以下のように書かれている。

  引揚列車とは名のみのこと。乏しい乍、必死と守り通した各自の荷物の間々に、定員以上に押し重なり。必要もない一つ一つの駅の空停車。その間に盛んな闇商人の割込み。等々、折角帰って来た内地に愛想が尽きかけながら、体力の脱落も著しかった。上野駅では、またしても普通の旅客と競争で、ホームを走りつゝ列車に乗った。そして暫く迫る寒さに、身をちゞかめながら一関の近くに来るまで、私は花巻の炎上を知らないでいたのだった。(事実はこの戦火の前日には父は死んでいた。それさいも知らずに私はいた。) 四月も近かろうとして凍みついている様な天象。薄明のうちに、しかも心なしか花巻の町は、甚だ不気嬾に、我等の一家を路傍に立たせた。

 また後半には、

 帰り着いた日、終日をねむり暮らして、次の日変わった町並を十年振りで私は宮澤さんに御伺いした。

とある。

 飛田は引き上げまでの十年近くは内地に居られなかった。そして飛田は、「旭ノ又小学校」に昭和二十三年から二十八年まで先生をされていた。

 昭和十四年ごろには、飛田は花巻にいなかった。なぜか進氏は虚言ともとれるような事を「賢治の花園」に記されたのか。

 それではいったいライターは誰であったのか。

  つづく

 


『宮澤賢治』ゴーストライター

2013年03月26日 | 随想・日記

         

佐藤隆房著『宮澤賢治』は、御子息進氏により「口述」は明らかになったが、初版の「序」に「昭和十四年二月脱稿」(6行目)とある。飛田についての疑問はいくつか考えられもするが、ここではゴーストライターは誰であったのかである。冨山房の市村宏氏が「『宮沢賢治』のできた頃」と題して29年近くも経過してからであるが、『宮澤賢治』昭和四十五年九月十五日第五版印刷に記されている。そのなかで注目されるのは、草稿を携えて訪問されたのは加茂儀一氏だと云う。加茂とのつながりのある人物とは誰か。そして初版の「後記」は、以後なぜか消されていた。

    

つづく