1995年1月17日朝、阪神淡路大震災、震度7の直撃。
寝ていた私はベッドごとゆすられて、転げ落ちるのを耐える事で精一杯でした。
幸いにして家族に大きな怪我は無かったのですが、当時住んでいた実家周辺でも大きな被害が発生しました。
その頃、撮影した写真は、まだデジカメでは無かったので今ではプリントしか残っていません。少し劣化してきたこともあり、デジタル化して保管しておくことにしました。
当時、私は30代、働き盛りのサラリーマンでした。
たくさんの方が亡くなられた大災害ですが、正直に言うと、TVで見るまであまり実感がわきませんでした。
地震直後は、なんだか大変なことになったなぁという感じで、どうやって会社へ行こうか、2、3日休ませてもらえるかな?なんて事が最初の悩みだったと思います。
その後、避難先から2時間以上の通勤が大変なので、水もガスも復旧しないなか自宅に戻ることにし、半分キャンプみたいな生活をしながら通勤してました。
今でも大きな音がすると「びくっ」としますが、もう写真を見て涙を流すこともなくなりました。
日々生きていくことに精一杯なのかもしれません。
大震災の教訓
●素早く一報
直後なら電話が通じるかも。まず遠方でも良いので誰か知り合いに一報を入れ、そこから親戚関係に連絡してもらうのがいいです。
当時、まだ珍しかった携帯電話を持っていました。暗闇の中、ボーっと液晶が光ってくれたのですぐに拾う事ができました。
兄貴に電話したのが地震数分後です。あと後輩に電話を入れて「会社に遅れるかも」と伝言しました。
その後、1時間くらいたった頃には、もうどこへも繋がりませんでした。
お昼頃になると携帯を持っているのに気付いた人が集まってきました。順番に貸してあげましたが、神戸市内へは全く繋がらなかったようです。
結局、発信2本、着信0本のまま、電池が切れて使えなくなりました。
●靴を室内に
ガラスや食器で足の踏み場も無くなります。ちょっとした怪我なら病院も対応する暇はありません。しかし、避難生活をするのに、足を切ったりしていたら不便きわまりありません。
あと目が悪い人は眼鏡。身近なところに置いておくほうが良いですが、埋もれてしまえば見つかりません。私は、机に入れていた予備メガネを引っ張り出すことができ不自由せずに済みました。
●タンスが横転
タンスや冷蔵庫が転倒するのは「前」とは限りません。阪神淡路大震災のように加速度が非常に早い場合、方向によっては「側転」します。
重量物の周りには寝ないこと。これは大切だと思いました。
アルバム写真を見てもらったら判りますが、布団の上に倒れたタンスが、もし直撃していたら大怪我だったと思います。
●水や食料はなんとかなる
幸い、近隣都市は崩壊しなかったので、地震の翌日、落石を抜うようにして芦有道路を抜け大阪まで買い出しに出かけました。(後に通行止め)
大阪府まで来ると、普通に居酒屋やコンビニが営業しているのにびっくりしました。
親戚のおばさんとこに顔を出し、一通りの生活用品や食料を購入したのち、自宅に戻りました。
会社が用意してくれた避難所へ移るまでの1週間は、自力でなんとかなりました。
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先日も東海沖で震度6弱がありました。日本周辺も再び大地震の恐れが高まってきたのかもしれません。
私は、阪神大震災に遭うまでは地震に対する準備や心構えは全くありませんでした。小学生の頃から、地震は関東で起きるものだと思っていたのです。
倒れた高速道の下を通る国道43号線、十数時間前にそこを走って帰宅しました。
百年単位で動く地震が、数時間、いや数分ずれただけでもっと恐ろしい思いをしていたかもしれません。
早朝で両親とともに自宅に居たことは幸いでした。
いつか地震は起きるものだと覚悟し、いざという時は、落ち着いて行動する事が大切だと思います。
寝ていた私はベッドごとゆすられて、転げ落ちるのを耐える事で精一杯でした。
幸いにして家族に大きな怪我は無かったのですが、当時住んでいた実家周辺でも大きな被害が発生しました。
その頃、撮影した写真は、まだデジカメでは無かったので今ではプリントしか残っていません。少し劣化してきたこともあり、デジタル化して保管しておくことにしました。
当時、私は30代、働き盛りのサラリーマンでした。
たくさんの方が亡くなられた大災害ですが、正直に言うと、TVで見るまであまり実感がわきませんでした。
地震直後は、なんだか大変なことになったなぁという感じで、どうやって会社へ行こうか、2、3日休ませてもらえるかな?なんて事が最初の悩みだったと思います。
その後、避難先から2時間以上の通勤が大変なので、水もガスも復旧しないなか自宅に戻ることにし、半分キャンプみたいな生活をしながら通勤してました。
今でも大きな音がすると「びくっ」としますが、もう写真を見て涙を流すこともなくなりました。
日々生きていくことに精一杯なのかもしれません。
大震災の教訓
●素早く一報
直後なら電話が通じるかも。まず遠方でも良いので誰か知り合いに一報を入れ、そこから親戚関係に連絡してもらうのがいいです。
当時、まだ珍しかった携帯電話を持っていました。暗闇の中、ボーっと液晶が光ってくれたのですぐに拾う事ができました。
兄貴に電話したのが地震数分後です。あと後輩に電話を入れて「会社に遅れるかも」と伝言しました。
その後、1時間くらいたった頃には、もうどこへも繋がりませんでした。
お昼頃になると携帯を持っているのに気付いた人が集まってきました。順番に貸してあげましたが、神戸市内へは全く繋がらなかったようです。
結局、発信2本、着信0本のまま、電池が切れて使えなくなりました。
●靴を室内に
ガラスや食器で足の踏み場も無くなります。ちょっとした怪我なら病院も対応する暇はありません。しかし、避難生活をするのに、足を切ったりしていたら不便きわまりありません。
あと目が悪い人は眼鏡。身近なところに置いておくほうが良いですが、埋もれてしまえば見つかりません。私は、机に入れていた予備メガネを引っ張り出すことができ不自由せずに済みました。
●タンスが横転
タンスや冷蔵庫が転倒するのは「前」とは限りません。阪神淡路大震災のように加速度が非常に早い場合、方向によっては「側転」します。
重量物の周りには寝ないこと。これは大切だと思いました。
アルバム写真を見てもらったら判りますが、布団の上に倒れたタンスが、もし直撃していたら大怪我だったと思います。
●水や食料はなんとかなる
幸い、近隣都市は崩壊しなかったので、地震の翌日、落石を抜うようにして芦有道路を抜け大阪まで買い出しに出かけました。(後に通行止め)
大阪府まで来ると、普通に居酒屋やコンビニが営業しているのにびっくりしました。
親戚のおばさんとこに顔を出し、一通りの生活用品や食料を購入したのち、自宅に戻りました。
会社が用意してくれた避難所へ移るまでの1週間は、自力でなんとかなりました。
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先日も東海沖で震度6弱がありました。日本周辺も再び大地震の恐れが高まってきたのかもしれません。
私は、阪神大震災に遭うまでは地震に対する準備や心構えは全くありませんでした。小学生の頃から、地震は関東で起きるものだと思っていたのです。
倒れた高速道の下を通る国道43号線、十数時間前にそこを走って帰宅しました。
百年単位で動く地震が、数時間、いや数分ずれただけでもっと恐ろしい思いをしていたかもしれません。
早朝で両親とともに自宅に居たことは幸いでした。
いつか地震は起きるものだと覚悟し、いざという時は、落ち着いて行動する事が大切だと思います。