広島旅行の一日目、ホテルに荷物を預け呉港までJRを乗り継ぎました。
行き先は「大和ミュージアム」、世界最大の戦艦大和、その資料館です。
私はどちらかというと「戦艦武蔵」のファンで「大和」については特別の感は持っていませんでした。また私の「大和像」は、学生時代に繰り返し読んだ吉村昭著「戦艦武蔵」からみたそれしかなく、なんとなく知っている程度でしかありませんでした。
広島に向かう新幹線の中で、辺見じゅん著「男たちの大和」(上)を読んで大体の知識を入れて行ったのですが、ここ大和ミュージアムでは新たな大和感を得ることができました。
展示館自体は新しくきれいで冷房もよく効いておりゆっくりと見学することができました。
メイン展示は大和の1/10再現モデルです。
1/10モデルで26.3mあるそうです。3階から撮影しても全部収まりきりません。(広角のGoProを持っていくのを忘れました)
実際の艦で263m、東京駅とほぼ同じ大きさになるそうです。実は、敵から発見されないよう全長を抑えた設計なのですが、主砲46センチ砲による発射の衝撃に耐えられるよう艦幅は広く取られずんぐりむっくりになっています。
後部付近。スクリューは4軸、最大速度27ノット(時速約54km)
排水量7万トンの巨大戦艦でありながら、海上を50km/h以上の速度で突っ走ることができます。
後部拡大。艦尾の旭日旗の両横に銃座が見えます。この銃座は「沖縄特攻戦」に備え後から追加された特設銃座9番と10番でしょうか。従って最終モデルの模型ということになると思います。
「男たちの大和」によると、天蓋のないこの特設銃座は、降り注ぐ銃弾と爆弾の破片から身を守る為に柔道場の畳で周りを囲って戦ったそうです。
艦尾カタパルトには偵察用の零式水上偵察機が搭載されています。定数6機の搭載機も最後の戦いでは1機になり、更に、途中で失うより生き残って戦えと、艦長の命により鹿児島へ戻されたのです。
艦載機もなく主たる航空支援もなく、数隻の護衛だけで沖縄へ向かった大和は、昭和20年4月7日、鹿児島県枕崎市の西南西約200km沖合いで米軍の猛攻撃を受け沈没しました。
最期を覚悟した艦は、先例に倣い舳先を北に向けて「北枕」の進路をとったといいます。
大和、武蔵ともに、その巨大な主砲が敵艦隊に有効な射撃を加える機会無く生涯を終え、大鑑巨砲主義の終わりを告げました。
このあと半年を待たず日本は終戦を迎えることになります。
再現された艦橋。
大和最後の艦長となった有賀艦長は、ここからどんな気持ちで沈みゆく船を見やったのでしょうか。
展示館には、大和の資料のほか、零式艦上戦闘機62型と人間魚雷「回天」などの実機が展示されています。
悲しい物語を秘めた乗り物ですが、いずれも日本の技術力の高さを証明する一面も持っています。
大和のような巨大な船を作るには、高い技術と工程管理が不可欠だったはずです。敗戦により全てを失ったにもかかわらずその技術力は現代の日本にも引き継がれました。
お取引先の名前も見えます。単に船というより巨大な建造物といたほうが正しいのかもしれません。欧米列強に封鎖される中、日本国産、独力だけで作り上げたことに敬意を表します。
さて、大和ミュージアムを出て道を挟んだところにある海上自衛隊「鉄のくじら館」に移動します。
海上自衛隊呉資料館「鉄のくじら館」
機雷除去活動などを広報する海上自衛隊の資料館ですが、メインは2004年に退役した実際の潜水艦「あきしお」の内部を見学することができます。
以前は写真撮影禁止だったようですが、今はその一部を自由に見てまわることができます。
人、ひとりが通るだけでいっぱいの通路。この両側に運航に必要な機材と生活スペースがぎっしり詰め込まれています。
普通は3段ベッド、食堂やトイレも膝が突っ返そうなスペースに押し込まれています。唯一個室を持つ艦長の部屋でさえこの広さになります。
大和時代から引き継がれた日本の造船技術は世界的にもトップレベルにあるのですが、更に潜水艦における造船、運用、操船技術は今でも最高水準で維持されています。
使いこまれた各装置、今でも磨きこまれすぐにでも操作できそうです。
一時代前なら極秘扱いだっただろう操舵室。深海を潜行するサブマリーナたちの司令塔です。
大和もゼロ戦もこの「あきしお」も戦いのための道具ではありますが、兵器だからといって目を背けるのではなく、その時代の役割と物語を知ることが大切だと思います。