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大分紀行(1) 「下山環状列石」

2006-03-17 | 磐座・巨石・霊石
3月11日から13日にかけて、大分県は安心院町で開催された「第15回巨石祭」に、超歴研 KIN会長、イワクラ学会副会長 鈴木旭さん そして私とサクラさん4人で参加してきました。旭さんは、山口経由で今晩宿で合流予定です。
羽田から一路大分空港へ。レンタカーを借りたあと山香にある「下山ストーンサークル」へ向かいました。事前に、発見者で保存館を設営された井上香都羅さんに旭さんがアポを取ってくれていたおかげで、資料館の数々の展示物の説明、ストーンサークルへも、足がお悪いのにもかかわらずご同行して頂き、詳しいご説明をしていただけました。
残念ながら開拓された関係で、現在見る事が出来るのは、その一部のみではありますが大小さまざまな石が連なる様は、いかにも意図的に並べられた感じを伺い知る事ができます。その規模ですが推定では、縦70m 横40m程度の楕円形で、総面積0.2ヘクタール程の大きさで、かなり広大な規模のものであった事が分かります。
私見では、北九州各地で見られる「神護石(こうごいし)」のひとつのような感じがします。神護石自体現在でも、その用途は、はっきりと分かってないようです。一般的には、山城の跡説とか言われていますが石垣状に組み合わせた山城とは根本的に異なりただ大小様々な石を列を成して並べて置いてあるだけの簡単なもので、私見では、もっと簡単な用途。例えば他との「区間割」とか「祭祀的な結界」を意味しているのではないかと推測しています。つづく


下山環状列石 説明板

大牟礼山方向を仰ぐ「牛岩」

サークル東方 300m付近にある巨石「夫婦岩」

ストーンサークル記念館

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3 コメント

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神護石は誤植ですよ! (KAZZ)
2007-01-06 11:20:51
古代山城研究会のKAZZと申します。

>私見では、北九州各地で見られる「神護石(こうごいし)」のひとつのような感じがします。
>
おそらく誤植だと思いますが、
“神護石”ではなくて「神籠石」が正しい表記です。

それから「神籠石」という用語自体も本来は「磐座」のような神体石の一種を表す言葉ですから、
これらの遺跡-「古代朝鮮式山城」を表すにはふさわしくない名称です。
最近(といっても20年くらい前から)研究者間では神籠石系山城という呼び方をしていますが、文献に記載のない山城について、学史的に「神籠石」を冠しているだけです。

99年に見つかった福岡県上毛町の「唐原神籠石」も昨年の史跡申請時に「唐原山城跡」と改称されました。
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ご指摘感謝!! (ruribo)
2007-01-06 22:24:55
KAZZさま

>神護石は誤植ですよ!

わざわざご指摘ありがとうございます!!
各地で存在が確認されている所では確かに「神籠石」の標記が正しいようですね。
「神護石」で検索すると、けっこう誤植多いようで
すね。自分もどこかで“籠”を“護”としてインプットされていたのでしょう。

おっしゃるように、定説では「山城説」に落ち着いているようですので、確かに「神籠石」と言う名称だと違和感はありますね。

しかしながら、今になってわざわざ「神籠石系山城」と括るのも八木等の説が一般的になったからですよね!?
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)の
「神籠石」項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B1%A0%E7%9F%B3
いずれも、すぐ近くから土塁跡や柱の痕跡がみつかった事から山城説に落ち着いった経緯のようですが、一部のこれらの遺跡が昔から神社などの神域に位置しており神聖な場所であった伝承も多い事は事実ですし、全てを「山城説」として結びつけるのは、如何な物かと私見では、思っているのですが…。
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神籠石系山城について (KAZZ)
2007-01-10 17:47:52
古代山城研究会のKAZZです。

>一部のこれらの遺跡が昔から神社などの神域に位置しており神聖な場所であった伝承も多い事は事実ですし、全てを「山城説」として結びつけるのは、如何な物かと…

ruribo0209さんは、神籠石系山城の遺跡をご覧になったことはありますか?
これらの山城の列石は、城壁(版築土塁)の根留め石であり、雨水による跳ね返りの浸食を防ぐ機能を持っていました。
列石自体は'80年代に発見された瀬戸内の古代山城にもあり、最近では大野城や鞠智城といった文献に記録の残る山城でも確認されています。
またお隣の韓国でも、三国末期~統一新羅時代にかけて版築土塁の基礎に列石(韓国では基壇石と呼ぶ)を持った山城が造られるようになってくることが明らかになってきています。
正直なところ、現在の研究段階では、神籠石系山城は「古代朝鮮式山城」であり、「神域説」を考える余地はありません。
“昔から神聖な場所”だったというのは、高良山や石城山のことを念頭に置かれているのだと思いますが、山城の占地はもっと戦略的、政治的に決まっているようです。
「列石や石塁が切石で造られている」ことや「内部に建物跡が見つかっていない」点を訝しみ、神域説的な見方をされる向きもあろうかと思いますが、これらの点は「戦う山城(籠城・戦闘用)」→「見せる山城(政治的・軍事示威用)」への変遷という視点から説明することが出来ると考えます。

>しかしながら、今になってわざわざ「神籠石系山城」と括るのも八木等の説が一般的になったからですよね!?

「神籠石」という名称についてですが、明治31年高良山の遺跡が学会に紹介された際、列石遺構の呼称として誤って「神籠石」が用いられてしまい、その後九州各地で確認された同様の遺跡も「神籠石」と呼ばれるようになってしまいました。
本来は高良大社参道脇にある「馬蹄石」と呼ばれる露岩の元々の呼称が「神籠石」であり、高良山縁起では、列石遺構は「八葉の石畳」と呼ばれていたそうです。
http://archaelog.exblog.jp/tags/%E7%A5%9E%E7%B1%A0%E7%9F%B3/#3972204
現在、学会・研究者間で“神籠石系山城”と呼んでいるのは、文献に記載のない山城について、学史的に「神籠石」を冠しているだけで、単なる考古学の「分類用語」に過ぎません。最近では神籠石系山城も朝鮮式山城も「古代山城」と一括して捉えられるようになってきています。
最新の研究では、神籠石系山城は、文献に記録の残る朝鮮式山城よりむしろ後出(7世紀末~8世紀初頃)の“日本化された朝鮮式山城”と考える説が有力になりつつあります。
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