今回紹介するものは、2002年8月に訪れた大分県は、国東半島の外れにある国東町(現国東市)下成仏という場所にある「神代文字」が刻まれた磐座の紹介です。(神代文字とは…。)
※当時、我々は事前に国東町の役場に問い合わせして、ガイド役の方とアポを取っていたので拝見する事が出来ました。これから探訪されたい方は、私有地でもあり場所の特定が難しいので、国東市教育委員会などへ問い合わせした方が得策かと思います。
それでは、以下に貴重な神代文字磐をご紹介します。
(※いかんせん訪れた時間が夕方6時過ぎで、明るい写真が撮れなかった事が悔やまれます。撮影:2002-08-05)
八乙の磐座 大分県国東町下成仏にある私有地の山中に存在します。
磐座の表面(南面)には、神代文字と伝わる豊国文字(山窩文字)と阿比留草文字の混合書体が陰刻されています。
神代文字の部分を判読しやすいように写真を加工してみました。
また、磐座の反対側(南面)にも豊国文字で書かれた文字が陰刻されています。
読みやすくするために写真加工してみました。
また、磐座の手前には、やはり文字が刻まれた石碑がありました。こちらにはハッキリと漢字で「富山◯山稜」と刻まれていました。(写真だとストロボ光で、判読不可)
さて、この2つの神代文字で書かれている文書は、一体なんと読み、そしてどんな意味を持つのでしょうか?
まず、以前から関連書籍で紹介されている読み方とその意味は以下の様なものです。
(南面)「ソコヲヤキ(そこを焼き) ヨキチホレ(良き地掘れ) シモワトク(下は疾く) ヒワノカミノリヨ(日輪の神宣りよ) シフキアエス(此葺不合)ネツキヨタイ(子二十五代) テムダ(日神子)」
(北面)「トミアキタラシナカオキテンノウ」(富秋足中置天皇:ウガヤフキアエズ王朝 第25代 上記や竹内文献に記述される幻の王朝)
出展:神字日文考 吉田伸啓著 中央アート出版(1999)には、以上の様に解読されていました。
ただ、実際に豊国文字や阿比留草文字と照らし合わせて見ると、確かに判読できる文字も有りますが該当しない文字も多数あり、全体の読み下し文に関しては、何とも言えないのが正直な感想です。
本件で、WEb調査していたところ面白い考察をされていたサイトがありました。
参考:超古代文字の解読・ファイストスの円盤-Ⅱ
※以下は、自分が以前会報用に記述した報告書の抜粋です。
(略)~(高千穂の天岩戸窟より出土と伝わる今は所在地不明の「岩戸蓋石碑文」も豊国文字が刻まれていたが関係などが気になる。)
また、すぐ目の前に「○富山山稜」と記された石碑があった。
富山が越中の富山県を指しているのかどうかこれだけでは、皆目検討がつかない。ただし、この位置関係からするとどうやらこのイワクラの説明書きみたいなものではないか?との推測はたつ。
ただし、疑問なのは、①文字種がアヒル文字との混用なこと。②天皇の表記が「スメラミコト」ではなく「テンノウ」である事。③左から右に読み解けること。(戦後の読み方)以上のような事実から戦後刻まれたものである事は否めない。
〇〇様(山を管理されているガイドの方)によれば、もともとこの周辺にはサンカの民が長く定住していたそうで、不思議な文字が記されたイワクラの存在は子供の頃から気になっていたそうだ。
そんなわけでこのイワクラは永代大事に守られてきたそうである。
この周辺には「皇居広場」という字名が以前あったそうでなぜそんな地名が残っていたのか不思議だったともお話される。
文字の意味や有無はともかくこのイワクラは国東を中心とした王朝がかつて栄えていた時代。(ウガヤフキアエズ王朝)まつろわぬ民達がそのシンボルとして密かに何かしらの意図で奉り語り残してきた遺産なのかも知れない。超歴史研究会2003年4月会報 “夏季大現地調査3 日目 国東半島探訪編”より
関連サイト
・神代文字岩
・日本一のペトログラフ岩 ~ガイド学習会 2011・3・5
※当時、我々は事前に国東町の役場に問い合わせして、ガイド役の方とアポを取っていたので拝見する事が出来ました。これから探訪されたい方は、私有地でもあり場所の特定が難しいので、国東市教育委員会などへ問い合わせした方が得策かと思います。
それでは、以下に貴重な神代文字磐をご紹介します。
(※いかんせん訪れた時間が夕方6時過ぎで、明るい写真が撮れなかった事が悔やまれます。撮影:2002-08-05)
八乙の磐座 大分県国東町下成仏にある私有地の山中に存在します。
磐座の表面(南面)には、神代文字と伝わる豊国文字(山窩文字)と阿比留草文字の混合書体が陰刻されています。
神代文字の部分を判読しやすいように写真を加工してみました。
また、磐座の反対側(南面)にも豊国文字で書かれた文字が陰刻されています。
読みやすくするために写真加工してみました。
また、磐座の手前には、やはり文字が刻まれた石碑がありました。こちらにはハッキリと漢字で「富山◯山稜」と刻まれていました。(写真だとストロボ光で、判読不可)
さて、この2つの神代文字で書かれている文書は、一体なんと読み、そしてどんな意味を持つのでしょうか?
まず、以前から関連書籍で紹介されている読み方とその意味は以下の様なものです。
(南面)「ソコヲヤキ(そこを焼き) ヨキチホレ(良き地掘れ) シモワトク(下は疾く) ヒワノカミノリヨ(日輪の神宣りよ) シフキアエス(此葺不合)ネツキヨタイ(子二十五代) テムダ(日神子)」
(北面)「トミアキタラシナカオキテンノウ」(富秋足中置天皇:ウガヤフキアエズ王朝 第25代 上記や竹内文献に記述される幻の王朝)
出展:神字日文考 吉田伸啓著 中央アート出版(1999)には、以上の様に解読されていました。
ただ、実際に豊国文字や阿比留草文字と照らし合わせて見ると、確かに判読できる文字も有りますが該当しない文字も多数あり、全体の読み下し文に関しては、何とも言えないのが正直な感想です。
本件で、WEb調査していたところ面白い考察をされていたサイトがありました。
参考:超古代文字の解読・ファイストスの円盤-Ⅱ
※以下は、自分が以前会報用に記述した報告書の抜粋です。
(略)~(高千穂の天岩戸窟より出土と伝わる今は所在地不明の「岩戸蓋石碑文」も豊国文字が刻まれていたが関係などが気になる。)
また、すぐ目の前に「○富山山稜」と記された石碑があった。
富山が越中の富山県を指しているのかどうかこれだけでは、皆目検討がつかない。ただし、この位置関係からするとどうやらこのイワクラの説明書きみたいなものではないか?との推測はたつ。
ただし、疑問なのは、①文字種がアヒル文字との混用なこと。②天皇の表記が「スメラミコト」ではなく「テンノウ」である事。③左から右に読み解けること。(戦後の読み方)以上のような事実から戦後刻まれたものである事は否めない。
〇〇様(山を管理されているガイドの方)によれば、もともとこの周辺にはサンカの民が長く定住していたそうで、不思議な文字が記されたイワクラの存在は子供の頃から気になっていたそうだ。
そんなわけでこのイワクラは永代大事に守られてきたそうである。
この周辺には「皇居広場」という字名が以前あったそうでなぜそんな地名が残っていたのか不思議だったともお話される。
文字の意味や有無はともかくこのイワクラは国東を中心とした王朝がかつて栄えていた時代。(ウガヤフキアエズ王朝)まつろわぬ民達がそのシンボルとして密かに何かしらの意図で奉り語り残してきた遺産なのかも知れない。超歴史研究会2003年4月会報 “夏季大現地調査3 日目 国東半島探訪編”より
関連サイト
・神代文字岩
・日本一のペトログラフ岩 ~ガイド学習会 2011・3・5
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