写真:城山(井伊谷城址公園(城山公園))
ようやくリベンジで訪れることが出来た井伊谷城址。
ここを舞台として繰り広げられていた歴史を考えますとドラマとリンクし感慨ひとしおです。
さて、最後にご紹介するのは“小野但馬守正次”が奉られている二宮神社とその終焉の地へと向かいます。
井伊谷城址公園から登ってきた散策路を降りていくと途中二手に分かれる分岐があり二宮神社方面へと向かいます。
散策路の終点が二宮神社になるのですが二宮神社と反対側にちょっと気になるお社がありましたので寄って見る事にしました。
(※この写真は、こちらから拝借させて頂きました。)
お社が赤いので稲荷社だと思ったのですが拝殿の中を覗いて見たら…。
なんと!!背後に磐座が見えるではありませんか!!
拝殿の裏手にあった磐座
ヤブが茂って全体を見通すことが出来ませんでしたが間違いなく磐座を御神体として拝する形態のようです。
これは、大収穫でした。
※後日ここは、岩屋稲荷という名称である事が判明しました。
【二宮神社】
一の鳥居 背後に先程訪れていた城山が見えます。城山は見る位置を変えて見ると美しい神名備型をしていました。(トップ写真)
二宮神社 拝殿
祭祀:多道間守命・宗良親王
由緒: 当二宮神社は多道間守と宗良親王との御二柱 を御祭神としております。往古は三宅神社と 称し奉り、天日槍尊の四世で、井伊郷の荘司 三宅氏の始祖 多道間守の尊霊を奉祀した 延喜式の式内社に列せられた霊社であります。
第十一代垂仁天皇の勅諚に応え常世の国から 我国へ橘を将来したのがこの祖神多道間守で 当地発祥の井伊家は式内社渭伊神社を象徴 する井桁と、当三宅神社の橘とを家紋と致しました。
元中二年八月十日(西暦一三八五年)後醍醐天皇 の皇子宗良親王が井伊城に薨ぜられるや 九月南帝の勅使中院為久郷、中院少将定平 朝臣下向、御連枝の方廣寺開山、圓明大師を 御導師として葬送の御儀を執行い、当三宅神社 に尊霊を合祀し奉り、慈来二柱の神霊を祭祀 するため二宮神社と改称し奉りました。(現地案内板より)
現地案内板(クリックして拡大)
狛犬の台座に井桁が見えます。
拝殿の隣には天王社があります。
ドラマでも見せ場だった井伊谷城に居城していた直虎一行を追い立て城を専横した小野但馬守正次。
遠江侵攻を開始した徳川家康によって井伊谷城は攻め込まれ、彼の34日間の短い天下は終焉します。
山中に逃亡し捕らえられた政次とその幼い子息2人は刑場、この近くの蟹淵において処刑されます。
その後永禄11(1568)年。彼の怨霊を鎮めるため地元民らの手により二宮神社の境内に小野政次を祭神とした但馬社が建てられます。現在はこの天王社に合祀されています。
こちらは現地で掲載されていた資料です。(クリックして拡大)
【小野但馬守正次供養塔】
最後の目的地は、二宮神社から3分程の場所にありました。
ドラマで正次がクローズアップされてから急遽建てられた立て看のようです。
住宅街の一画 道路脇にあります。
中央の尖った石碑が正次の供養塔で、その両脇が彼の二人の子息のものと言われています。
しばし滞在していると、地元民と思われるご婦人がそれぞれの花瓶に花を活けにいらっしゃていました。
他の供養塔には、小野家と親交のあったと言われる「中井家」と刻まれた供養塔が多くみられる事から政次らの供養塔も、中井家によってつくられたのではないかということです。(ちなみに中井家は、先ほど訪れた二宮神社の神主を代々務められているそうです。これでなぜ但馬社が二宮神社に奉られ、ここに供養塔が建てられているのかが繋がりました。)
最後に、正次とその二人の子息が処刑された地と伝わる「蟹淵(がにぶち)」へここから近そうでしたので訪れてみました。
永禄12年(1569)4月7日に正次は、この辺りで処刑され5月7日二人の子息も処刑されました。
小野家は、このあと小野玄蕃の子 朝之が家督を継ぐ事になります。
【マップ】
さて、井伊家ゆかりの地~井伊谷探訪は、これにて終了
翌日は、浜松市内周辺を巡って参りました。
浜松市内編へつづく
ようやくリベンジで訪れることが出来た井伊谷城址。
ここを舞台として繰り広げられていた歴史を考えますとドラマとリンクし感慨ひとしおです。
さて、最後にご紹介するのは“小野但馬守正次”が奉られている二宮神社とその終焉の地へと向かいます。
井伊谷城址公園から登ってきた散策路を降りていくと途中二手に分かれる分岐があり二宮神社方面へと向かいます。
散策路の終点が二宮神社になるのですが二宮神社と反対側にちょっと気になるお社がありましたので寄って見る事にしました。
(※この写真は、こちらから拝借させて頂きました。)
お社が赤いので稲荷社だと思ったのですが拝殿の中を覗いて見たら…。
なんと!!背後に磐座が見えるではありませんか!!
拝殿の裏手にあった磐座
ヤブが茂って全体を見通すことが出来ませんでしたが間違いなく磐座を御神体として拝する形態のようです。
これは、大収穫でした。
※後日ここは、岩屋稲荷という名称である事が判明しました。
【二宮神社】
一の鳥居 背後に先程訪れていた城山が見えます。城山は見る位置を変えて見ると美しい神名備型をしていました。(トップ写真)
二宮神社 拝殿
祭祀:多道間守命・宗良親王
由緒: 当二宮神社は多道間守と宗良親王との御二柱 を御祭神としております。往古は三宅神社と 称し奉り、天日槍尊の四世で、井伊郷の荘司 三宅氏の始祖 多道間守の尊霊を奉祀した 延喜式の式内社に列せられた霊社であります。
第十一代垂仁天皇の勅諚に応え常世の国から 我国へ橘を将来したのがこの祖神多道間守で 当地発祥の井伊家は式内社渭伊神社を象徴 する井桁と、当三宅神社の橘とを家紋と致しました。
元中二年八月十日(西暦一三八五年)後醍醐天皇 の皇子宗良親王が井伊城に薨ぜられるや 九月南帝の勅使中院為久郷、中院少将定平 朝臣下向、御連枝の方廣寺開山、圓明大師を 御導師として葬送の御儀を執行い、当三宅神社 に尊霊を合祀し奉り、慈来二柱の神霊を祭祀 するため二宮神社と改称し奉りました。(現地案内板より)
現地案内板(クリックして拡大)
狛犬の台座に井桁が見えます。
拝殿の隣には天王社があります。
ドラマでも見せ場だった井伊谷城に居城していた直虎一行を追い立て城を専横した小野但馬守正次。
遠江侵攻を開始した徳川家康によって井伊谷城は攻め込まれ、彼の34日間の短い天下は終焉します。
山中に逃亡し捕らえられた政次とその幼い子息2人は刑場、この近くの蟹淵において処刑されます。
その後永禄11(1568)年。彼の怨霊を鎮めるため地元民らの手により二宮神社の境内に小野政次を祭神とした但馬社が建てられます。現在はこの天王社に合祀されています。
こちらは現地で掲載されていた資料です。(クリックして拡大)
【小野但馬守正次供養塔】
最後の目的地は、二宮神社から3分程の場所にありました。
ドラマで正次がクローズアップされてから急遽建てられた立て看のようです。
住宅街の一画 道路脇にあります。
中央の尖った石碑が正次の供養塔で、その両脇が彼の二人の子息のものと言われています。
しばし滞在していると、地元民と思われるご婦人がそれぞれの花瓶に花を活けにいらっしゃていました。
他の供養塔には、小野家と親交のあったと言われる「中井家」と刻まれた供養塔が多くみられる事から政次らの供養塔も、中井家によってつくられたのではないかということです。(ちなみに中井家は、先ほど訪れた二宮神社の神主を代々務められているそうです。これでなぜ但馬社が二宮神社に奉られ、ここに供養塔が建てられているのかが繋がりました。)
最後に、正次とその二人の子息が処刑された地と伝わる「蟹淵(がにぶち)」へここから近そうでしたので訪れてみました。
永禄12年(1569)4月7日に正次は、この辺りで処刑され5月7日二人の子息も処刑されました。
小野家は、このあと小野玄蕃の子 朝之が家督を継ぐ事になります。
【マップ】
さて、井伊家ゆかりの地~井伊谷探訪は、これにて終了
翌日は、浜松市内周辺を巡って参りました。
浜松市内編へつづく
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