今回は、特に特定の名称はありませんが国道20号線を諏訪方面からの南下中に偶然発見した大岩を紹介したいと思います。
この大岩には、この近くに鎮座する大武川諏訪神社との関連があって併せて訪問して見ることにしました。
諏訪方面から国道20号線を南下してくると立場川と釜無川の合流ポイントがあります。この辺りは、ちょうど長野と山梨の県境に辺りその対岸に目を向けるとかなり巨大な巨石が視野に入ってきます。
国道20号線から中央にへばりつく様な巨石が見えています。(Googleマップストリートビューより)
すぐ先にある橋へ右折し立場川をまたいでこの大岩が良く見える対岸まで行ってみることにしました。
この大岩は、釜無川の対岸に位置しています。
撮影しているこちら側が長野県諏訪郡富士見町で、対岸は山梨県北杜市白州町大武川となります。
見るからにかなり巨大な大岩です。
マップを確認してみるとこの大岩のすぐ横に諏訪神社があるのが確認出来ましたので、早速訪れてみることにしました。
釜無川に架かる鉄橋を渡り、集落を抜ける手前を右折し、暫く走ると左側道沿いに柵で覆われた鳥居が見えてきます。ここが大武川諏訪神社中社となります。柵は獣害除けの様で広い境内を取り囲むように、電気柵が張り巡らされていました。
拝殿 こちらの情報によれば、この拝殿はかつて本家諏訪大社上社の宝物殿だったそうです。式年造営で建て替えた時に、古宮をここへ移築したのだそうです。
境内の目立つ場所に、昔から大事にされていたと思われる碑がありました。
何を祭祀している碑なのかは、自分には判読不可なのでわかりません。
境内末社 拝殿横の一段上がったところにある道祖神や祠などが祭られている一画
案内板 諏訪神社ですから建御名方命が祭祀なのは、分かりますがその前のスペースが少々気になります。元々の主祭神がかつてここに記載されていたのでしょうか? 諏訪の神は、後からここへ武田氏が勧請したものでしょうから元々の地主神の記述がここにあって消されたのではないかと推測しています。
由緒:上古、建御名方命、出雲国より此の地に至り、武甕槌命と平和の誓をなせし地と伝へられ、崇神天皇の御宇津沼川別命東征の功に依り本州西辺の地に封ぜられ、其の御孫大臣命、諏訪国造に任ぜられ廟を此の地に建てられし地なり。故に重きをおきて大武川と呼ぶに至りしと云ふ。成務天皇の御宇日本第一大軍神の神位を授けられ、徳川家康より御朱印神領一石二斗五升を寄進せらる。 (山梨県神社庁HPより)
この辺りの植物群落は山梨県指定天然記念物に指定されていて、その筋?では有名らしいです。
さて、大岩です。境内裏手から北西に続く丘陵と地続きに先ほど見た大岩は位置しています。
大岩の眼前まで来ました。かなりの高さがあります。目視でざっと20m以上はあるでしょうか。
全体像が入りきれないのでパノラマ撮影しました。(クリックして拡大します。)
この周辺はフォッサマグナの直上に辺り断層の隆起した露頭部分がこの大岩で学術的にも貴重な地域なのだそうです。
またこの地域には、大岩に纏わる面白い民話がありますので少々長くなりますが以下に転載させていただきます。
この周辺はフォッサマグナの直上に辺り断層の隆起した露頭部分がこの大岩で学術的にも貴重な地域なのだそうです。
またこの地域には、大岩に纏わる面白い民話がありますので少々長くなりますが以下に転載させていただきます。
(大武川の氏神様)
大武川の氏神諏訪神杜は、建御名方命を氏神として、古くから四月十二日に、お祭りを執り行っています。それについて、次のような神話があります。
出雲の国の神様たちに、おとなしく言うことをきかせるために天上からの使いが、この土地に差し向けられました。ところが、これらの使いは、みんなその土地に住みついて、誰も帰ってきません。三度目には、女の雉を催足がてら、様子を見にやりました。この雉は姿は美しいが、声はよくない、あまりうるさくなくので、射ち殺されてしまいました。
天の世界では、相談の末、こんどは経津主神を差し向けました。すると神社力の間から、タケミカズチノカミが、大声をあげて進みでました。
「ますらおは、経津主神はかりではありませんぞ。どうしてわたくしを忘れているのですか」
そこで二人の神が、一緒に行くことにきまりました。使いの神は、出雲の浜辺におりてきて、波打ぎわに、剣をさかさまに突きさし、その前にどかっとすわったタケミカズチノカミは、この国をつくりました。大国主命に向って「天照大神の仰せに従うか、どうか」と尋ねました。大国主命は「わたくしだけでは、なんとも申し上げられません。二人のむすこに相談の上、お答えします」
と、言いました。そこで経津主神に・意見を聞くと「それは天照大神のお仰せの通りにするのがよいでしょう」と答えました。
ところが、もう一人の建御名方命は、怒り出し「われわれの国に来て、こそこそ、おかしなことをいっているのは、いったい何者だ」そして大きな岩を高く差し上げて、ほうりだすと、タケミカズチノカミに向って、踊りかかりました。タケミカズチノカミの手は、たちまち氷の柱になって、キラキラと輝いたとみると、建御名方命が、びっくりしてうろたえていると、タケミカズチノカミは、その手をひねりとってしまいました。建御名方命は、あおくなって逃げ出し、山越え谷越え、大武川の大岩まで来たが、追いつかれて降参させられ、国土献上をさせられました。
実は信州諏訪で降参したので、上社・下社とあって、大武川の諏訪神社は中社だともいわれますので、信州に近い関係で、そんな話も流れたでしょう。これが神社にまつわる祭神のお話で、北巨摩には諏訪神社は、いく社もあります。(元話名取民一)
(こちらの記事より転載)
大武川の氏神諏訪神杜は、建御名方命を氏神として、古くから四月十二日に、お祭りを執り行っています。それについて、次のような神話があります。
出雲の国の神様たちに、おとなしく言うことをきかせるために天上からの使いが、この土地に差し向けられました。ところが、これらの使いは、みんなその土地に住みついて、誰も帰ってきません。三度目には、女の雉を催足がてら、様子を見にやりました。この雉は姿は美しいが、声はよくない、あまりうるさくなくので、射ち殺されてしまいました。
天の世界では、相談の末、こんどは経津主神を差し向けました。すると神社力の間から、タケミカズチノカミが、大声をあげて進みでました。
「ますらおは、経津主神はかりではありませんぞ。どうしてわたくしを忘れているのですか」
そこで二人の神が、一緒に行くことにきまりました。使いの神は、出雲の浜辺におりてきて、波打ぎわに、剣をさかさまに突きさし、その前にどかっとすわったタケミカズチノカミは、この国をつくりました。大国主命に向って「天照大神の仰せに従うか、どうか」と尋ねました。大国主命は「わたくしだけでは、なんとも申し上げられません。二人のむすこに相談の上、お答えします」
と、言いました。そこで経津主神に・意見を聞くと「それは天照大神のお仰せの通りにするのがよいでしょう」と答えました。
ところが、もう一人の建御名方命は、怒り出し「われわれの国に来て、こそこそ、おかしなことをいっているのは、いったい何者だ」そして大きな岩を高く差し上げて、ほうりだすと、タケミカズチノカミに向って、踊りかかりました。タケミカズチノカミの手は、たちまち氷の柱になって、キラキラと輝いたとみると、建御名方命が、びっくりしてうろたえていると、タケミカズチノカミは、その手をひねりとってしまいました。建御名方命は、あおくなって逃げ出し、山越え谷越え、大武川の大岩まで来たが、追いつかれて降参させられ、国土献上をさせられました。
実は信州諏訪で降参したので、上社・下社とあって、大武川の諏訪神社は中社だともいわれますので、信州に近い関係で、そんな話も流れたでしょう。これが神社にまつわる祭神のお話で、北巨摩には諏訪神社は、いく社もあります。(元話名取民一)
(こちらの記事より転載)
甲斐国志(諏訪明神 大武川村項) によると、本家諏訪大社は、上社と下社がありますが下社の大祝(おおほおり・最高位の神職)だった武居祝家(たけいほうりけ)の日記には、上と下そして中社があったことが記されているそうで、この大武川諏訪神社がその中社であると伝えています。
本家諏訪大社上社の宝物殿をわざわざ社格の低い郷社へ移築するには、やはりそれなりの理由があったわけです。
また、甲斐国志の同項には、興味深い記述があります。
中ノ社の祭礼は年に三十二度なり。およそ甲斐ノ国内に八箇の石を置き、八箇の木を植え、八箇の剣を祀りて国ノ鎮めとする所は皆大武川明神の末社なりと云~(略)~もし国に変災ある時は予め七所に其の応ありと云う。 又、大武川岩は祠西釜無川の水岸にあり。縦横五十歩許なるべし。
この記述の“大武川岩”こそが今回ご紹介した大岩であることは、間違えないと思われます。甲斐の国内に置いた「八か所の石」とは何でしょう?
諏訪には「七石」と言った巨石を信仰対象とした伝承がありますが、それらとの関連性も興味深いところです。
参考サイト:諏訪明神 大武川村
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