今回は、少々毛色の変わった巨石の紹介です。
中央高速一宮御坂インターより南へ5キロほど。ブドウ畑に囲まれた高台の集落「武居地区コミュニティセンター(旧名:室部公民館 )」の敷地内にあります。
星石(平成16年10月12日笛吹市指定文化財)
ガラスケースの中に納められています。
由来によれば、ここより270m上がった分水地点(マップで確認すると現在の花鳥山一本杉公園辺りになる?)に、祀られていたそうで歴史的価値が再認識され現在地に移設し保存されているのだそうです。
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星石のいわれ
この石碑は日本に一つしかない珍しいもので、ハレー彗星物語・甲斐路 四三号に研究発表されている。
文化の発達しない昔は、人々の日常生活も農作業も、天体の運行に基づいて行われており、一道禅流、八百萬神と刻まれた石碑の前に立つと、神仏に助けを求めて生きて来た先人達の心にふれることが出来る。
碑面に見える二箇の彗星は、一六〇七年のハレー彗星といわれ、その出現と消滅をあらわし、悪星退散を祝ってこの星石を作り、山伏が立会って一種の星祭りをしたらしい。
彗星の詩に「あな恐ろしの極みかな」と詠われるなど昔の人々は天変地妖をことごとく神仏の祟りと信じていたから、星祭りは 八代郡竹居村 土俗の修法がとられたと思われるが、明らかでない。
この石碑は高度の天文学・暦学・宗教学によって刻まれ、二七〇メートル上手の分水地点に祀られていたという。
花鳥山遺跡の麓にひろがる室部組の文化遺産として、日本の星石として、いつまでも後世に伝えていきたい。
・ 撰文 中村良一
・ 御坂町竹居 室部組
一九八四年 三月
文化の発達しない昔は、人々の日常生活も農作業も、天体の運行に基づいて行われており、一道禅流、八百萬神と刻まれた石碑の前に立つと、神仏に助けを求めて生きて来た先人達の心にふれることが出来る。
碑面に見える二箇の彗星は、一六〇七年のハレー彗星といわれ、その出現と消滅をあらわし、悪星退散を祝ってこの星石を作り、山伏が立会って一種の星祭りをしたらしい。
彗星の詩に「あな恐ろしの極みかな」と詠われるなど昔の人々は天変地妖をことごとく神仏の祟りと信じていたから、星祭りは 八代郡竹居村 土俗の修法がとられたと思われるが、明らかでない。
この石碑は高度の天文学・暦学・宗教学によって刻まれ、二七〇メートル上手の分水地点に祀られていたという。
花鳥山遺跡の麓にひろがる室部組の文化遺産として、日本の星石として、いつまでも後世に伝えていきたい。
・ 撰文 中村良一
・ 御坂町竹居 室部組
一九八四年 三月
(以上現地説明碑より)
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それでは、石の表面を良く観察してみましょう。
幅が約130㌢、高さ約38㌢ほど。表面に星らしき穴が27個掘られています。
(写真クリックで拡大)
こちらは、太陽と月と思われます。
左にかんむり座と右に北斗七星、ハレー彗星と言われている尾が付いた彗星2つが彫られています。ただ、かんむり、北斗七星ともなぜか星の数が一つ足りません。(写真クリックして解説)
右端には「一道禅流、八百萬神」の銘文が刻まれています。
光の関係で印影が良くわからないのですが、ネット検索をしていましたら拓本がありましたので、孫引きではありますが以下に転載させていただきます。
(掲載元:鉱物採取「星石」より 原本:山梨歴史研究会機関紙「甲斐路」43号)
ハレー彗星の出現は記録に残るもので1607年(慶長12年)、1811年(文化8年)に記録されています。
そもそもこの「星石」に関しては、記録が無いためいつ頃造られたものか定かでは無いそうですが、一年を通し星座や星は農作物の豊作・不作を占う吉凶の対象とされ、特に「彗星」の出現は、不吉の前触れと恐れられていたようです。
拓本を転載させて頂いた前述のサイトでは、記録に残る彗星が観測された年(1607年)とした場合、この二つの星座の位置関係からハレー彗星の出現と消滅時期を特定され、当時の天体図と碑面との位置関係が合致する事から製作年は1607年(慶長12年)であると考察されていて興味深いです。
同敷地内にあった石碑、道祖神碑など
星座が描かれている石に関しては、以前当ブログで取り上げた甲府市東光寺に鎮座“山八幡神社”の境内にある 「妊懐石(天対図石・星座石)」を紹介致しましたが、全国的に見ても他で類例がなく非常に貴重な巨石資料と言えるのではないでしょうか?
【マップ】
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