反抗したり、抵抗したり、「イヤ!」と叫んだりするのは
幼児とかだったら新しい自我の目覚めだったりして、一概に悪いことではないような気がします。
でも、認知症の場合はどうなんでしょうね?
僕のさっちゃんへの対応が少々押しつけがましくなっていたり、
さっちゃんのとる行動への否定的言動が印象として蓄積されていってるせいなのでしょうか?
昨日の月曜日は午前中からちょっと様子がいつもと違っていました。
さっちゃんは哀しそうでした。
「わたしは何にも出来ない」とうつむきがちに喋るんです。
表情は明らかに泣き顔で涙も滲んでるようでした。
そんなですから、僕は近寄ってハグしてあげようとしますが、
さっちゃん、それを嫌がるんです。
時間が流れ、日没のころ、さっちゃんは何かしら不満そうな雰囲気を漂わせています。
ぼそぼそ喋る言葉の意味を想像して考えました。
どうやらこの日は一日中家の中にいたので、出かけて歩きたかったようです。
買い物にも、散歩にも出ませんでしたから。
「散歩に行けばよかったね。でも、もう日が沈んで真っ暗だから」と、僕は言うしかありません。
しばらくすると、またぶつぶつ言い始めます。
今度はどうやら「夕食はまだなの?」と僕に文句を言ってるようですね。
今朝はゆっくり目覚めましたから、朝食は10時ころ、昼食は3時ころだったので、
夕食ももっと遅い時刻でいいと、僕は考えていたんです。
「夕食は?」って、5時ころに言われても・・・・
でも、さっちゃんの要望を無下に断るわけにもいきませんから、
夕食の準備をぼちぼちと始めました。
結局、夕食は7時過ぎに食べることとなり、まあまあお腹も空いて来てましたね。
そして今朝、今日はデイサービスに行く日です。
着替えは問題なく進み、朝食も済ませ、準備だけは問題ありません。
でも、「行かない」「何で行かなきゃならないの」と言います。
ただ、僕もだんだん分かってきてますから、そんな言葉はさほど気にしません。
チャイムが鳴って、さっちゃんに「玄関、開けて」と頼むと、素直に玄関へ。
スタッフさんの顔を見ると、さっちゃんは明るい顔つきになります。
その表情が本心からなのか、外部の人間に対する社交辞令的なものなのかは分かりません。
内と外の意識の違いがあるのだとすれば、それはそれでいいことのような気がします。
幼児とかだったら新しい自我の目覚めだったりして、一概に悪いことではないような気がします。
でも、認知症の場合はどうなんでしょうね?
僕のさっちゃんへの対応が少々押しつけがましくなっていたり、
さっちゃんのとる行動への否定的言動が印象として蓄積されていってるせいなのでしょうか?
昨日の月曜日は午前中からちょっと様子がいつもと違っていました。
さっちゃんは哀しそうでした。
「わたしは何にも出来ない」とうつむきがちに喋るんです。
表情は明らかに泣き顔で涙も滲んでるようでした。
そんなですから、僕は近寄ってハグしてあげようとしますが、
さっちゃん、それを嫌がるんです。
時間が流れ、日没のころ、さっちゃんは何かしら不満そうな雰囲気を漂わせています。
ぼそぼそ喋る言葉の意味を想像して考えました。
どうやらこの日は一日中家の中にいたので、出かけて歩きたかったようです。
買い物にも、散歩にも出ませんでしたから。
「散歩に行けばよかったね。でも、もう日が沈んで真っ暗だから」と、僕は言うしかありません。
しばらくすると、またぶつぶつ言い始めます。
今度はどうやら「夕食はまだなの?」と僕に文句を言ってるようですね。
今朝はゆっくり目覚めましたから、朝食は10時ころ、昼食は3時ころだったので、
夕食ももっと遅い時刻でいいと、僕は考えていたんです。
「夕食は?」って、5時ころに言われても・・・・
でも、さっちゃんの要望を無下に断るわけにもいきませんから、
夕食の準備をぼちぼちと始めました。
結局、夕食は7時過ぎに食べることとなり、まあまあお腹も空いて来てましたね。
そして今朝、今日はデイサービスに行く日です。
着替えは問題なく進み、朝食も済ませ、準備だけは問題ありません。
でも、「行かない」「何で行かなきゃならないの」と言います。
ただ、僕もだんだん分かってきてますから、そんな言葉はさほど気にしません。
チャイムが鳴って、さっちゃんに「玄関、開けて」と頼むと、素直に玄関へ。
スタッフさんの顔を見ると、さっちゃんは明るい顔つきになります。
その表情が本心からなのか、外部の人間に対する社交辞令的なものなのかは分かりません。
内と外の意識の違いがあるのだとすれば、それはそれでいいことのような気がします。