明治41年4月6日、石川啄木が釧路の新聞社を辞め、船で函館を経て上京の途中、宮古に立ち寄った日である。その日から今日がちょうど100年目だった。その啄木を偲びながら啄木が立ち寄った鍬ヶ崎のゆかりの地を散策するイベントが行われ、それに同行した。
啄木の宮古寄港は日記にも残されており、その日記を刻んだ漁協ビル前の「啄木寄港の地の碑」から散策は始まり、啄木が立ち寄ったという銭湯やうどん屋の名残のある場所から、知人からの紹介状をもって訪ねた道又医院などを約2時間かけて歩いた。とても気候もよく、絶好の散策日和。これで桜が咲いていたら言う事はなかった。
ただ啄木が来た100年前はあまりいい気候ではなくガスがかかっていたようだ。日記には「沈んだ、かびの生えたような空気に充ちてる』と書いているが、その日の空模様によってはそのような、ちょうど裏町のような雰囲気も漂いがちな、狭い街筋であっただろう。
しかし鍬ヶ崎のまちは、海岸通りは埋め立てられ当時とはもちろん大きく様変わりしているが、どこかに啄木の足跡を感じる風情が今なお漂っていた。
啄木の宮古寄港は日記にも残されており、その日記を刻んだ漁協ビル前の「啄木寄港の地の碑」から散策は始まり、啄木が立ち寄ったという銭湯やうどん屋の名残のある場所から、知人からの紹介状をもって訪ねた道又医院などを約2時間かけて歩いた。とても気候もよく、絶好の散策日和。これで桜が咲いていたら言う事はなかった。
ただ啄木が来た100年前はあまりいい気候ではなくガスがかかっていたようだ。日記には「沈んだ、かびの生えたような空気に充ちてる』と書いているが、その日の空模様によってはそのような、ちょうど裏町のような雰囲気も漂いがちな、狭い街筋であっただろう。
しかし鍬ヶ崎のまちは、海岸通りは埋め立てられ当時とはもちろん大きく様変わりしているが、どこかに啄木の足跡を感じる風情が今なお漂っていた。