星さんぞう異文化きまぐれ雑記帳

異文化に接しての雑感を気ままに、気まぐれに

ケロウナ便り(26) 大山巌とケロウナ(3)

2006年08月12日 19時41分28秒 | Weblog
第二次大戦後、日本の軍人の銅像は軍国主義の象徴としてことごとく壊されたそうですが、九段坂公園の大山巌の銅像のみが唯一残ったそうです。壊さないよう指示したのがあのダグラス・マッカーサー元帥で、当時大国ロシアを破った大山はナポレオンと並び称される英雄であり、マッカーサーも大山巌に心酔しており、自室に大山巌の肖像画を飾るほどのファンだったようです。したっがて、なにかの折りにマッカーサーがwinfieldに立ち寄った際、尊敬するOYAMAを町名につけたのか、あるいはカナダの高名な軍人に同じように大山に心酔した人がいて、その人が命名しちゃったんじゃないでしょうか…という推理はいかが?
 
これは、私のブログの隠れた愛読者S先輩の推理です。マッカーサーは冗談としても、大山巌に心酔したカナダ人が名付け親であるとの推理が見事に的中しました。鹿児島県人会をイメージした私が甘かった!
 
ヨーロッパを初めとして日本、中国等からの移民が流入して辺境の開拓が進んだ19世紀後半、地名を正式に決める機関としてGeographic Board of Canadaが1897年に設立され、以後変遷を経て現在のGeographical Names Board of Canada(GNBC)に至っています。この機関が町の名前をつけるに際しての一定の基準を示し、インディアンの名前を用いる場合の母音と子音の関係、発音にまで口を挟むようになったのは1920年代頃からで、OYAMAの命名された1906年には影響力は限られていたようです。インディアン言葉を語源とする地名はカナダには数多くありますが、日本名を起源とする名前は極めて稀で、「良くぞ付けてくれた」と今にしては思います。
 
図書館で見せてもらった資料には命名の経緯と編者の見解とが、およそ次のように書かれていました。
 
①この地に1906年1月に郵便局が開設され、Henry Irvine氏が初代局長として就任。
②1904~1905年の日露戦争で大国ロシアに勝利した、卓越した日本軍人・大山巌の名前からIrvine氏が命名。
③開設時の候補名としてOYAMAの他にChilutsus, Railroad,  Interlakenの三案があった。編者の意見ではChilutsusがベストである。
④Kelowna, Okanagan, Naiagara, Ottawa, Toronto等、すべてインディアン語に由来するが、カナダの国の成り立ち、歴史から妥当なものである。それに比べてOYAMAは違和感あり、命名者の見識を疑う。早期の改名が望ましい。
 
資料の詳細までは確認しませんでしたが、発行年は1940年代と思われ、カナダの地名に日本名が採用されていることに「命名者の見識を疑う。早期の改名が望ましい」なんて記述があり、「この野郎!余計な事を言うな!」と腹立たしくもあり、当時の命名者の勇気と見識に改めて敬意を表したくもなりました。
 
それにしてもカナダの山奥の地名に、よりによって日本軍人の名前をつけるには、それなりの時代背景もあったのでしょう。郵便局長さんの個人的な好みだけで、如何に山奥の田舎とは言え、町の名前が決まるとは思えません。「陸の大山・海の東郷」と並び賞賛された東郷平八郎の名前を冠した北欧のビール「TOGO」とは少々レベルが違います。そもそもヨーロッパ各国の移民政策の裏には、大国ロシアによる度重なる圧迫から逃れて国力を維持する意味も当然あったはずで、ヨーロッパからの移住者が日本の勝利を祝い喜ぶ気持ちは、我々の想像をはるかに超えた大きなものだったのかもしれません。Lake Countryに移住して開墾に従事していた多くのヨーロッパ人にとっても大山巌はナポレオンの再来であり、移住者からの強い圧力を受けて局長さんも断りきれなくなったのかも知れませんね。
 
Irvine氏が郵便局長に就任した頃、実はLake Countryで活躍した小林伝兵衛さんはじめ日本人開拓者の何人かとIrvine氏が友達になり、優秀で勤勉な日本人移民と大山巌とが重なって、迷うことなく「OYAMA」に決定した、なんてのが実は隠された事実だったんじゃないかと私は未だに我が仮説を捨てていません。しつこいですねぇ!
 
いずれにしても、オカナガン地方に移住して刻苦勉励、日本民族の優秀性を身をもって証明した先達がいたからこそ付いた名前であることには間違いなかろうと思っています。ついでに言えば、Irvine氏はその昔大国ロシアに苦しめられた小隣国からの移民であったろうことも想像に難くありません。このこともOYAMA誕生に幸いしました。歴史って面白い!
 
 
 
 

ケロウナ便り(25) 大山巌とケロウナ(2)

2006年08月12日 11時55分43秒 | Weblog

およそ日本と縁のなさそうなケロウナに何ゆえに大山巌から名付けた町があるのか?

前回の第一次探検では大山の「おの字」も浮かび上がってきませんでした。ひるむことなく、第二次探検に出かけました。目指すはLake Country第二の町Okanagan Centre。ここにLake Country Museumがあることが調査の結果分かったのです。国道97号線をWinfieldで左折してオカナガン湖の東岸に沿って北上すると間もなくOkanagan Centreの集落です。名前から想像して、Lake Countryの中心であった時代を思い描いたら大間違い。あっという間に通り過ぎました。「The Store」の看板を掲げる古い木造の建物がどうやら唯一の店らしいので、そこに立ち寄り尋ねたら「すぐそこの小学校の跡地が博物館」「Okanagan Centreの現在の人口は800人程度」との答え。センターじゃないじゃん!OYAMAより小さいじゃん!

博物館(というよりも日本でもよく田舎町で見かける「資料館」をウンと小さくしたもの)にはLake Countryが開拓された1900年代初頭からの生活古民具等が展示され、裏庭には1906年に建てられた小さなキャビンが移築されて公開されています。壁には古い新聞の切り抜きも貼られ、この地域に入植して成功した日本人移住者の記事、写真等も展示されています。20世紀初頭に長野県から移住した小林伝兵衛さんという先達が、この地域での日本人移住者のリーダー的存在であったことも分かりましたが、まだまだ大山巌との接点が見出せません。

私の推理では、鹿児島からの移住者が当地に最初に入植しそれなりの成功を収めて、郷土の英雄「大山巌」さんの名前を拝借して土地に命名したというものですが、なかなかその仮説を立証する材料が出てきません。

第二次現地探検では思わしい材料に出くわさなかったので、仕方なしに図書館で調べてみることにしました。1905年に誕生したケロウナ市は昨年生誕100年目を迎えました。その時に発行された記念誌の一頁に興味深い記事を見つけました。題して、「History of Okanagan Japanese-Canadian is published」。この地方に移住した日本人の足跡を纏めた「The Vision Fulfilled」という本が発行されたことを伝えるとともに、カナダへの日本人移民の歴史が簡潔に記されています。これはまた別の機会にご紹介したいと思います。大山巌への言及を期待して探しましたが、これまた残念ながら見つかりません。

いよいよ最後の手段です。図書館の司書のオバサンに事情を説明したら、地名の由来の載っている資料を紹介してくれました。それによると「OYAMA」は、私の推理とは違って、1906年にこの土地の初代郵便局長に任命されたHenry Irvineなるオジサンの好みで名付けられたらしいことが分かりました。私の夢がもろくも崩れ去った瞬間でした。

1904~1905年の日露戦争で大国ロシアを破った小国日本の「大山巌」の名前は、当時のカナダの新聞でも連日紙面をにぎわせていて、このオジサンの脳みそにしっかりと刻み込まれていたのでしょう。

OYAMA命名の経緯の詳細は次回の報告といたします。