2005年にケロウナは市制100周年を迎えました。その機会にケロウナ市が発刊した「ケロウナ100年史」の中にオカナガン地方の日系カナダ人(Japanese-Canadian)の歴史を概説した記事(筆者Bill Hoshizaki氏)を見つけました。以下はその要約です。
①明治政府の移民政策のもとカナダに移住した日本人は1901年現在約4,500人。
②1904~1907年の4年間に11,529人が大量移住し、人口は一気に4倍に増大。殆どが独身男性労働者で、バンクーバー周辺での漁業、造船業、林業に従事したが、反アジア感情が高まるなかでの差別を受け、苦難の日々を経験。
③反アジアの気運の高まりに抗し切れず、カナダ政府は日本からの移民枠を年間400人に制限したため、1908~1925年17年間の移住者は約10,000人に留まった。その中の多くは1908年以前に移住した独身男性相手の「写真花嫁(Picuture Brides)」であった。
④沿岸部での反アジア気運の高まりを受け、沿岸部からBC州奥部への日系人移動が始まり、Vernon近郊のCold Stream Ranchでの就労日系人が増大した。
⑤1920年頃にはオカナガン地方中央部で農業に従事する日系人人口が相当数に昇った。
⑥女性の移住が進み、世代交代が進む中で日系人のいわゆる「男社会」が徐々に変化。「一攫千金を得て故郷に錦を飾る」夢を捨て、「永住してカナダを故郷とし、自分の土地を手に入れて成功する」夢にシフトして行った。
⑦1941年に23,000人いた日系カナダ人のうち、90%以上がBritish Columbia(BC)州の海岸線から100マイル以内の沿岸部に居住していたと思われる。
⑧残りの10%約2000人は全国に散らばっていて、一箇所にまとまった人数が居住していたのはOkanagan地方とアルバータ州の一部に限られる。
⑨戦時中の1942年に太平洋岸の日系人は内陸部へ強制移動させられ、財産を没収された苦い経験を持つ。戦後強制収容所を出た多くの日系人がトロント、モントリオール、カルガリーなどに定着して、移住者分布状況は戦前とは様変わりした。
⑩戦時中の不幸な体験を通じて、日系人はアイデンティティー、ルーツを求めての「魂探し(Soul searching)」を余儀なくされた。
⑪海岸線から300キロ以上奥まったオカナガン地方の日系人は強制移動、強制収容を免れたため、1900年代初頭から培われた蓄積が損なわれることなく根付き、定着させることができたのは幸いである。オカナガン地方の日系人は他の地方の日系人よりもカナダへの愛着、愛国の情が強いのではなかろうか。
およそこのような内容の記事でした。
つくづく思うのは、こうして日系カナダ人が100年にわたる労苦と辛酸を積み重ねて作り上げた日本人の評判と名声があるからこそ、我々のような短期滞在の日本人もカナダ人から穏やかに、親しく接してもらえるのだと言うことです。先達への感謝なしでは一日も過ごせません。心の底からそう思います。
「オカナガン地方」とは、南はアメリカ国境と接するOsoyoosから始まり、北はオカナガン湖の北端に位置するVernonまでに点在するコミュニティーの総称で、その中心に当たるのがケロウナです。時間があったら下のサイトで確認してみてください。
http://www.britishcolumbia.com/regions/towns/?townID=3986
日系社会の実情を更に詳しく知りたい方は下のサイトがお勧めです。
http://www.najc.ca/