マラキ書3:8
『人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。』
自分の手に入ったものは自分のものだと思うなら、神にささげることが出来なくなります。
十分の一は自分たちのものではなく、神のものです。
ですから十分の一は自分のものをささげるのではなく、神のものを神にささげることです。
神のものを自分のものにするので、神はそれを見て、神のものを盗んだと言われました。
十分の一と奉納物は神の働きのために必要です。
それを使って教会の活動や伝道の働きが出来るので、ささげずに自分のものにするならば、神の働きが出来なくなります。
金額が少なくても大きくても十分の一は自分のものではなく、神のものであることを忘れてはいけないです。
残念ながら十分の一と奉納物をささげない人は神に盗みの罪と神の働きを妨害する罪を同時に行っているのです。
イエス様もこれに対して強調しました。
マタイの福音書23:23
『わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。』
【祈り】
主よ。神からたくさん恵みを受けているのに、さらに神のものまで盗むことは貪欲な心があるからです。欲のために神に罪を犯す人がいませんように。
【聖句をノートに書きましょう】
-十分の一献金、ささげもの-
- マラキ書3:10
- 創世記14:20
- 創世記28:22
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