ささかのブログ

雑多な思考整理のためにブログを活用中。
自分が生きやすくなればいいと思うけれど、教祖になるつもりはない。

バカと無知と読書法

2024-01-30 22:59:37 | Culture
橘玲(たちばなあきら)氏の、「バカと無知」を読みました。

びっくりするほど自分の思考と似ている上に、エビデンス(論拠)もしっかりしているので、読んでいるうちに付箋だらけになりました。

面白いと思った箇所には、AmazonのKindle電子図書の場合マーカーを引いて、実図書の場合は付箋を貼ります。
一通り読み終わったあと、マーカーや付箋を貼った場所だけ読み返します。
必要があれば、追加で調査します。

図書館で借りる本は、ノリによって経年劣化で色が変わるため付箋を貼れないのですが、そんな場合は紙を短冊状に切って差し込んでいきます。

本を買うか買わないかの判断基準は、半分以上のページに付箋や短冊を差し込む必要が出た場合。
図書館の複写制限は書籍の半分以下ですが、複写費用と時間を計算して、3分の1のページに付箋を貼る必要があったら、買ったほうが安上がりと計算できます。

逆に言えば、買う価値ありです。

逆の場合もあって、AmazonのKindleの場合、重要なところに赤をマークしますが、間違っているとか、論拠不明とか、矛盾した論理の部分に青をマークします。

図書館の本の場合、黒い印をつけた紙を挟んだりします。

青いマーカーや黒い印の紙が10箇所を超えたら、「読む価値なし」と判断して差し支えないと考えます。

残念ながら、このような本は存在します。

マンガにはそんなことしないですけれどね。1時間もあれば一冊読めるので。


付箋だらけになった「バカと無知」ですが、エビデンスを調べます。

IAT(潜在連合テスト)で、潜在的な差別、例えば黒人と白人では、白人であろうが黒人であろうが黄色人種であろうが、白人を善、黒人を悪と判断してしまう。

実際にやってみると、テストは恣意性を感じますね。
反応時間を計測しているそうですが、試しに意図的にというよりも、悪そうな白人はやっぱり悪そうなので、悪いイメージは白人だろうが黒人だろうが関係なく悪いと判断したら、なんだかよくわからない結果が出ました。

「ダニング=クルーガー効果」もしっかり調べる必要があると思って調べてみました。

ダニング=クルーガー効果は、そもそも能力が高い人がテストを受けると、自分ができたのだから他の人もできるはずと得点を低く見積もる自己採点をします。
能力の低い人が同じテストを受けると、よくわからなかったけれど、多分できているだろうと、得点を高く見積もる自己採点をします。
その結果、能力の高い人と能力の低い人の自己認識する結果は、ほとんど変わらなくなってしまうのです。

この結果から、著者は、「バカは自分のバカを認識できない」という強烈な論法を代弁しています。

代わりに、能力のある人は、自己評価を低くしてしまうのです。

これはしっかりデータを分析する必要があると思って、論文を当たりましたが、日本語の詳細な論文が見つからず、英語の論文をしっかり読む必要が出てしまい、詳細検討できていません。


というわけで、「バカと無知」は非常に面白く、納得する論理でもあるのですが、背景にある実験や理論の背景をしっかり検証しておく必要があるなと感じています。

たまに、論理がしっかりしていて、非常に筋が通っているのだけれど、基礎論文やデータまで確認すると、独自解釈してしまっている人というのもいるのですよ。

ものすごく納得の行く人の話を聞いた場合、しっかりと背景情報まで調べます。
その人を信じていないというよりも、一次情報まで遡って分析するのが、科学者として当然の好奇心で、最大の敬意の表しかただと思っています。

リーダーなどの中には、プレゼンが非常に上手で、研究予算をがっちり取れる人がいるのですが、肝心の実験を担当していないため、本質的理論を全く説明できない人や、聞くと担当者に丸投げする人とか、話をはぐらかしたり嘘を堂々という人とかもいるんですよ。

社長や教授でもいます。

だから予算を取れるんだろうなと思いますが、研究者としてプロフェッショナルかは意見が分かれるところです。


「バカと無知」はいいほうです。

睡眠時間を減らせないかと思って、ショートスリーパーの本を読んでいたのですが、冒頭に、「客観的な情報のみを書いています」と書いてあるにも関わらず、完全な私見や、専門がわからない医者の意見や、母数がわからないデータの平均で何%以上とか、分散や標準偏差の値などを全く考慮しないとか、そもそも集団わけが曖昧だったりして、青いマーカーを付ける必要が大量に発生して、読むのをやめた本があります。

そういうのは、詐欺師がよくやる手段なんですよね…。

せっかく買ったのに、AmazonPrimeで0円で読んだ本のほうが圧倒的にエビデンスがしっかりしていて、ショートスリーパーはリスクが有りすぎると思ってやめました。

Amazonでのレビュー数は前者が高いんですよね…。しっかりレビューしようかどうかは検討中。


つまりですね、世の中には読んで価値のある本と、読んでも無駄なだけの本があるんです。

その間ほかのことができずに、せっかく貴重な時間をかけて読むのです。
経済学で言う機会損失を計上するわけで、それは避けましょうと。

それで、結局それが有用な本か、無益な本かを見極めるためには、自分自身の知識と教養と経験が必要なのです。

本は他人の経験や思考を疑似体験して、自分の実践経験をするコストやリスクを削減します。
しかし、最終的には自分自身で実践して確かめる必要があります。

知識は使うための道具なのです。
ただ知っているだけではなく、それをどう応用するかなのですが、そのように知識を使っている人は少ないというのも事実です。
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大衆政治

2024-01-17 08:07:52 | Culture

民主主義なので、いわゆる大衆、庶民、民衆の意見が尊重される。

 

政府主導、政治主導、官僚主導などといわれるが、本当に最高決定者が国政を動かしているのかに疑問がある。

 

内閣総理大臣などの主導者の意思決定は、政治的意思決定に数パーセントは存在しているのだけれど、その主導者を選ぶのも基本的には大衆であり、意見を挙げていくのも大衆でもある。

 

日本を第二次世界大戦に向かわせたのは、政治家や軍部ではなく、新聞メディアであったという論もある。

新聞メディアの購読者は主に大衆になる。

もちろん、記事を書く記者の能力もあるし、新聞や雑誌とする編集者や編集長の才覚もある。

それを迎合するのは、最終的に大衆ではある。

大衆が、諸外国への戦争および侵略を煽る記事を迎合し、その迎合の動きによって軍部が勝ち目のない戦を強いられるようになったという見方もできる。

どちらを被害者ともすることができるし、どちらを加害者とすることもできる。

一般的に世の中で起きている多くの問題はこのような問題でもある。

 

これを防ぐにはどうすればよいか?

結局のところ、一般大衆がしっかりと世の中の動きを理解して、冷静に分析して、賢い選択をしていく必要がある。

つまり、大衆の頭が悪ければ、そこから選ばれる政治家も頭が悪くなる。

頭の悪い政治家を生むのも大衆であると言える。

賢い選択を行っている人をしっかり評価するのも、大衆の責任になる。

 

日本は政治力が弱い。

周囲を海に囲われ、簡単に侵略ができない地の利がある。

従って、異民族、異文化、異宗教、異人種による侵略を受けにくい。

代わりに、比較的平和的に輸入した外国文化を、強制力なく受け入れるため、独自の発展をする。

漢字、仏教、クリスマス、カタカナ外来語等、いつの間にか受け入れてしまう。

他の諸外国は、基本的に地続きで往来が自由であるため、簡単に侵略が起こるが、その分それを防ぐ交渉力、すなわち政治力が発展する。

逆に言えば、日本に政治が必要かどうかは疑問ではある。

古くから「和をもって尊しとなす」相互監視社会が基本なので、勝手に組織最適化を目指す。

しかし、小さく狭い村単位での価値観で村八分も起こるので、より大局的な視点も必要ではある。

 

ところが、労働権立法に関しては、ほとんど政治任せである。

経済活動は個別の企業に任せる自由経済主義であり、近年は新自由主義で、いわゆる郵政民営化など、行政機能をより自由競争社会に任せる動きが加速している。

本来、労働人権確保は労働組合が担うべきなのだが、学生運動などを強力に封じ込めた結果、その活動の火種は初期段階で消火されてしまう。

労働者の人権を主張できない文化を創り出してしまった。

 

現在は、労働組合擁護の風潮が高まっているのではないかと感じている。

結局のところ、労働者の現場の問題は、弁護士や政治家や厚生労働省などよりも、より労働者に近い労働組合が、労働組合法により実質的な実行能力を与えられている。

それを有効に活用してほしいというのが、政治家、法律家の考えである。

 

労働組合法の大前提は、「労働者と使用者は対等である」となっている。

商業経済優先によって、理不尽な人権の侵害に泣き寝入りするのではなく、しっかりと生きる権利を主張するための法律。

現在ほとんど忘れ去られているのが現実だと思うが、5月1日の「メイデー」は、アメリカの労働組合で、現在当たり前となっている、一日8時間の労働時間を、多数の犠牲者を出しながら勝ち取った記念日である。

一日8時間の労働時間は、国や企業から与えられたわけではなく、労働者が勝ち取った権利なのだ。

かつて一日15時間の労働時間が当たり前だったときに、労働者の健康の維持ができない、睡眠時間が取れない、自由時間が取れないという人権上の問題があったために、それを改善するために大衆が動いた。

 

政治が大衆を決めるのではない。大衆が政治を決めるのだ。

打倒などの直接的な攻撃ではなく、まずは、個々人が歴史を理解して正しい知識で世の中の動きを観察して、判断していく必要がある。

そのためには、近視眼的にならざるを得ない不確実で危険な生活ではなく、落ち着いて大局を見渡せるゆとりある時間を確保する必要がある。

そのためにも、法定労働時間8時間は非常に重要な制限である点を忘れてはならない。

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少子化の理由

2024-01-16 05:01:02 | Culture
日本は少子化だというけれど、単純に子供を作るのがリスクなんですよ。

100年程前は、子供は家の重要な収入源だった。

人生の先生も、技術の先生も、全て親だった。
否が応でも従う必要があるというか、それ以外の選択肢を選ぶ概念がない。

義務教育などないうえに、15歳の年齢制限などもなく、子供であろうが親の仕事を手伝わされるのが当たり前だった。

支配者の子供が支配者になり、施政者の子供が施政者になり、農民の子供が農民になり、奴隷の子供が奴隷になるのが当たり前の世の中だった。


現在、15歳以下の労働は原則禁止になっている。

日本だけに限らず、市民教育、国民教育によって、平等な教育の機会が与えられるようになっている。

職業選択の自由が保証されていて、国が与える独占名称資格以外の職業であれば、自由に仕事を選べる。
幼い頃から独占名称資格を取ることのメリットを知っているかどうかは、学習環境に大きな影響を与える。
医者の子供は医者に、弁護士の子供は弁護士になりやすい。医師免許、弁護士免許を得るための学習方法というものは存在する。
そして、人のミスを修正する医療や弁護は高給となる。
余談だが、医療事故を起こしにくい医療は精神科で、検査も少なく、手先を動かす技術的熟練が必要なく、リスクが低いということまで知っておくと色々合点がいくだろう。

これらの革新が行われたのがフランス革命と言われているけれど、その説明は別の機会とする。

子供は親に従う必要がなくなった。
子供は独立して自立する。
自分の職業は自分で決めて、自分の人生を歩む自由を手に入れた。

そして親は自分の老後の面倒を、自分で見る必要がある。

経済力と時間を消費してまで、子供を育成する必要がどこにあるのだろう?

そんな事は考えずに、生物の本能に任せて生殖行為に勤しめばいいというのも一論だけれど、そうした挙げ句、シングルマザーやネグレクトも多発する。

というわけで、合理的に考えると、わざわざ結婚して子供を生んで育てるというのが、ただのリスクじゃないか?という結論に至るし、結局のところその点が頭に引っかかっているがために、子供を欲しいと思わない自分がいる。
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首席

2024-01-11 07:07:07 | Culture
工業高校卒業時は、圧倒的首席だった。

いわゆるトップだったのだけど、平均点が100点を超えていた。

基本的に全科目テスト満点を取るのだけど、所属する機械科で難しい情報工学や制御工学などは、あまりにも赤点が発生するため、先生が250点満点のテストを作ったりしていたわけですよ。
それさえも満点を取るので、平均点が100点を超える。

機械科所属だったけれど、電子、情報、電気、化学、デザイン各科が存在していた。当時化学はいまいちだったけど、他の科は興味があったので、特にデザインはデザイン事務所でアルバイトしたり積極的に活動していた。
学内広報誌の表紙を担当するぐらいには積極性を出していた。
支給されたポケットコンピュータで、ハンドアセンブルのマシン語によるゲームを作ったりしていた。
数学の担任教師からは、授業でやっていることはいいから、自分で進められるところはやってしまいなさい。あとは静かにしていれば何していてもいいと言う状況。

卒業直前は、大学への推薦入試のためもあり、昼休みに職員室で先生と雑談するぐらいはしていて、授業の資料作成とかも手伝っていた。

実際の生活では、高校二年には自ら家を出て福祉家庭に入った。
そのくらい家庭環境が悪かったので、工業高校の受け入れはお互いにとってメリットがあった。
少なくともいられる場所があった。

不良もいたけれど、特にいじめを受けることもなく、比較的平和な学生生活を送れた。
ある程度は家庭環境の複雑さも知られていて、周りは努力する姿も見ていたし、自分からも協力できることは進んで行っていた。

工業高校なので。
程度の低い授業だったかもしれない。
程度の低い学生だったかもしれない。
でもそんな環境が大好きだった。

ある日の夜、定時制の学生がタバコの火で芝生を全焼させるという事件があった。

それさえも笑い話にできる自由さがあった。

別に殆どの生徒は進学を目的としていないので、一般科目の国語などは真剣に授業をしない。
八割型脱線して雑談になる。
生徒も先生もそれを前提で脱線する。
でも、話を聞く姿は真剣だし、話をする方も真剣だ。
退屈な授業ではない。
学生と先生の、丁々発止の議論も交わされる。
常に質疑応答がある活発な議論の場だ。

面白かったなぁ。

それらの全ては、しっかりと背景に目的と理由があって連携して行われていたのですよ。
放っておけば様々な事情で、学校はおろか、社会からさえもドロップ・アウトする寸前の落ちこぼれもいる。
わざと脱線して、それでもしっかりと様々な事情を抱えた生徒をキャッチする。

多少外れた行動をしても、ほとんどすべてを受け入れる許容力があったのです。

大好きだったなぁ。

本当のダイバーシティ、多様性の受け入れができていた。

逆に、大学や社会人になってから、偏狭な偏見を持った偏った人間に多く会う。
別にいじめなどなんとも思わない。

受験教育の弊害だろうなぁと考えている。

私が個人的に思うに、本当の意味での多様性教育が工業高校で行われていた。
インターナショナルスクールどころの多様性ではない。実際に日本人以外の学生もいた。
先輩では、フランスのバカロレア大学に進学するという人もいた。
別にそれがおかしいとか悪いとか、そんな判断はしない。やりたければやらせるし応援するという環境があった。

私が見るに、大学や社会人のほうが価値観が狭い。
常識が狭い。
人それぞれが抱える多様な事情を考察することもないし、受け入れることもない。

日本の国民教育は、工業製品のような一様化教育としてうまく行っているとも言えるけれど、多様性教育としては失敗していると思う事例だ。

工業製品に最も近いと思われる工業高校で多様性が教育されて、いわゆる進学校で大量生産製品的思考が育成されている。
バカじゃないのかと思う非人道的常識がまかり通ってしまう。

常識のレベルが低いんですよね。

もっと社会を実体験で勉強しないとわからないよなぁ。
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誤因果関係

2023-11-10 09:55:34 | Culture
自分自身も注意しなければならないこととして。

因果関係を間違えている人は失敗する

原因と結果に対して、正しく理解できていない人は、失敗します。

蛇口をひねったから水が出る

という因果関係が正しく結べなくて、例えば、

(何らかの概念として)神様が水を出している

となると、必要な時に水を出せないし、水道使用料計算もできないことになるし、水道のコマが劣化して水漏れしていたとしても、それを直すことはできない。

ものを操作する際には、「何をしたら、どうなる」という、正しい因果関係がしっかり理解されていないと、当然ながら事故が発生する。

車の運転でも、クレーンやフォークリフトの操作でも、ガソリンスタンドでの給油の際も、「何をしたら、どうなる」を間違えれば事故が起こる。

また、実際に事故が起きた際に、その原因を突き止めることはできない。
人が死亡する事故が起きたとして、
「すべて宇宙人がやったこと」
とすることはできるが、この先事故を防ぐための指針にはならない。また事故が起きる。


さて、先日とある人と人工知能(AI)の話をしていたのですが、話が全く噛み合わない。

私は、数学理論を基にAIを話しているのだけど、相手は数学を全く理解しないでAIを語ろうとする。

AIはコンピュータ上の計算シミュレーションであり、魔法でも奇跡でもなんでもない。
すべてのプログラムは単純な足し算引き算を積み重ねることによって成立している。
スプラトゥーンのネバネバしたインクの動きも、すべて計算で成り立っている。

私はその計算の仕方について話しているのだけれど、相手は数字以外ですべてを語ろうとする。

これは話しにならない。
因果関係が破綻しているから。
当然、そのような相手と何を行っても失敗することは目に見えている。


AIにしても、DX(デジタルトランスフォーメーション)にしても、原点は地道な計算技術や分析や情報整理になる。
しかし、いわゆる一般の経営者は全くそれを知らない。

事業会計の賃借対照表を見ることはできても、それを導き出すための、膨大な日々の簿記仕分け作業を全く知らないようなもので。

少しでも知っていれば、なぜ借金が増えるか、どうすれば借金が減るか、無駄な支出を抑えて利益を上げられるかを考えることができるが、賃借貸借表の見方も知らず議論をしても結論は出ないし、判断を誤る。

逆に、ISO9001(品質マネジメント)の認証は注意が必要で、本来ISO規格やJIS規格は、「守れば効率がいいもの」なのであって、法律等によって定められる、「守らなくてはならないもの」ではない。

その辺りを間違えて認証を得ることが目的となっている会社があるが、最大の目的は、「品質を上げること」である。

品質を上げていないにもかかわらず、「ISO認証を得た」と自慢しても意味がない。

これは同様に、あらゆる資格免許にも言えることで、活用しない限り、資格を取っても勉強をしても、無駄になる。
学校での勉強も同じで、なんのために勉強をするのか?という目的がないと、何も身につかない。

つまり、複雑なプロジェクトを成功に導くためには、詳細な理論や技術をしっかりと理解したうえで分析を行い、マクロな視点での目的を明確にし、正しい因果関係を結んでいく必要がある。

それができなければ、当然ながら失敗する。

簡単なようで、これが案外にできない。
複雑なプロジェクトは、一つの物事にいくつもの因果関係が結びついており、それぞれの因果関係の強さをしっかりと把握する必要があるからでもある。

したがって、大企業のプロジェクトも、国政に関わる判断も間違えていることが多い。

組織の失敗は災害と言う場合があるが、大抵の場合、因果関係の考慮を間違えた、「人的災害」である。

因果関係をしっかり考えられる人は、多くないんです。
自分も含めて。
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