民主主義なので、いわゆる大衆、庶民、民衆の意見が尊重される。
政府主導、政治主導、官僚主導などといわれるが、本当に最高決定者が国政を動かしているのかに疑問がある。
内閣総理大臣などの主導者の意思決定は、政治的意思決定に数パーセントは存在しているのだけれど、その主導者を選ぶのも基本的には大衆であり、意見を挙げていくのも大衆でもある。
日本を第二次世界大戦に向かわせたのは、政治家や軍部ではなく、新聞メディアであったという論もある。
新聞メディアの購読者は主に大衆になる。
もちろん、記事を書く記者の能力もあるし、新聞や雑誌とする編集者や編集長の才覚もある。
それを迎合するのは、最終的に大衆ではある。
大衆が、諸外国への戦争および侵略を煽る記事を迎合し、その迎合の動きによって軍部が勝ち目のない戦を強いられるようになったという見方もできる。
どちらを被害者ともすることができるし、どちらを加害者とすることもできる。
一般的に世の中で起きている多くの問題はこのような問題でもある。
これを防ぐにはどうすればよいか?
結局のところ、一般大衆がしっかりと世の中の動きを理解して、冷静に分析して、賢い選択をしていく必要がある。
つまり、大衆の頭が悪ければ、そこから選ばれる政治家も頭が悪くなる。
頭の悪い政治家を生むのも大衆であると言える。
賢い選択を行っている人をしっかり評価するのも、大衆の責任になる。
日本は政治力が弱い。
周囲を海に囲われ、簡単に侵略ができない地の利がある。
従って、異民族、異文化、異宗教、異人種による侵略を受けにくい。
代わりに、比較的平和的に輸入した外国文化を、強制力なく受け入れるため、独自の発展をする。
漢字、仏教、クリスマス、カタカナ外来語等、いつの間にか受け入れてしまう。
他の諸外国は、基本的に地続きで往来が自由であるため、簡単に侵略が起こるが、その分それを防ぐ交渉力、すなわち政治力が発展する。
逆に言えば、日本に政治が必要かどうかは疑問ではある。
古くから「和をもって尊しとなす」相互監視社会が基本なので、勝手に組織最適化を目指す。
しかし、小さく狭い村単位での価値観で村八分も起こるので、より大局的な視点も必要ではある。
ところが、労働権立法に関しては、ほとんど政治任せである。
経済活動は個別の企業に任せる自由経済主義であり、近年は新自由主義で、いわゆる郵政民営化など、行政機能をより自由競争社会に任せる動きが加速している。
本来、労働人権確保は労働組合が担うべきなのだが、学生運動などを強力に封じ込めた結果、その活動の火種は初期段階で消火されてしまう。
労働者の人権を主張できない文化を創り出してしまった。
現在は、労働組合擁護の風潮が高まっているのではないかと感じている。
結局のところ、労働者の現場の問題は、弁護士や政治家や厚生労働省などよりも、より労働者に近い労働組合が、労働組合法により実質的な実行能力を与えられている。
それを有効に活用してほしいというのが、政治家、法律家の考えである。
労働組合法の大前提は、「労働者と使用者は対等である」となっている。
商業経済優先によって、理不尽な人権の侵害に泣き寝入りするのではなく、しっかりと生きる権利を主張するための法律。
現在ほとんど忘れ去られているのが現実だと思うが、5月1日の「メイデー」は、アメリカの労働組合で、現在当たり前となっている、一日8時間の労働時間を、多数の犠牲者を出しながら勝ち取った記念日である。
一日8時間の労働時間は、国や企業から与えられたわけではなく、労働者が勝ち取った権利なのだ。
かつて一日15時間の労働時間が当たり前だったときに、労働者の健康の維持ができない、睡眠時間が取れない、自由時間が取れないという人権上の問題があったために、それを改善するために大衆が動いた。
政治が大衆を決めるのではない。大衆が政治を決めるのだ。
打倒などの直接的な攻撃ではなく、まずは、個々人が歴史を理解して正しい知識で世の中の動きを観察して、判断していく必要がある。
そのためには、近視眼的にならざるを得ない不確実で危険な生活ではなく、落ち着いて大局を見渡せるゆとりある時間を確保する必要がある。
そのためにも、法定労働時間8時間は非常に重要な制限である点を忘れてはならない。