大学生の時、祖母が亡くなったと連絡を受けて群馬に帰った。
今から考えればおかしなことかもしれないけれど、通夜の夜、祖母の隣に布団を敷いてそこで寝た。
確か自分から言ったと記憶している。
部屋がなかったのかもしれないけれど。
そのほうがいいと思った。
同じく北枕だったのかな?
そういった禁忌は既に無く。
北枕なんか気にしてたらうかうか寝れんとか、まぁ色々思うところがあった。
そういえば今も北枕だ。
普通に祖父祖母の家に遊びに行って、寝る感じ。
若いうちの自殺は、生きるための死といわれる。
教員免許取得の際、当時文部省編纂の教科書に書いてあった。
生きるということに悩み、死を選ぶべきかどうしようかともがく。
死は行動力による。
それに対し、老年の死は諦めの死という。
生きることを諦める。
生きる体力や気力を失い、眠るのと同じように死ぬ。
葉隠の宮本武蔵などは代表的だと思う。
生きることに固執していたような人も、生きることを諦めれば死ぬ。
今の自分はどうかというと、いつ諦めてもいいように、思い残すことがないように生きている。
その観点で言えば、まだ死ねない。
言葉にすれば当たり前だけど、死んだら終わりだと考えている。
転生も天国も地獄も幽霊もなく死ぬ。
そんなものは死んでも生きたいと考える、人類の妄想だ。
他の動物に死後の世界があるとは思えない。
コンティニューなんかできない。
だったら諦めず色々やってみたい。
やれることをやって生きたい。
だからといって無茶をするとかそういうことではない。
生きる前提で色々やりたい。
諦めたら終わり。
そのうえで、社畜になる暇はない。
そんなくだらない価値観の元で死にたくない。
他人の理想や目的や目標のために生きたくはない。
自分の理想や目的や目標のために生きたい。
しかしサラリーマンもできるようになってしまった。
仮に大学教授、そこまで行かなくても、准教授などになってしまえば、サラリーマンになることは無理だと、知り合いを見ていればわかる。
強固な目的とかではなく、サラリーマンになることが無理。
生活の前提が違う。
大学に養われてもいるわけだけど。
世間の大部分の人にとって、非常識な生き方をしている。
だいたい日本において、サラリーマン文化が定着したのは、ここ百年にも満たない。
大多数が農業で生計を立てていたのが戦前の日本だった。
今を生きる人にとっては非常識だろう。
ただそれは、現状を鑑みると、社畜よりよっぽど幸せだとも思う。
小学校や幼稚園から、毎日毎朝同じ時間に同じ場所へ同じ顔を見るために出かける。
大量生産品ですよ。
その文化を疑問に思わず、他の文化を知らずに死んでいく。
雇用統計で端数を切られる中のひとりですよ。
それが嫌なんですけれどね。