新型コロナ禍で自殺者数が増えているとのこと。
数字で見ると、
微増はしている。
しかし、平成10(1998)年の増大は著しい。
統計の問題か?
私が大学院を卒業したのが1997年で、就職氷河期がバブル崩壊後の1993〜2005年と言われている。
1990年頃は、「24時間戦えますか?」のCMもあったし、2001年に「パワハラ」の言葉が生まれた。
活気もあったけれど、問題もあったのか?
このあたりの分析は主題ではないので後にするけれど。
精神科救急医師の記事を読んでいて、腑が落ちたのが、「日本はそもそも自殺を美化する文化」だということ。
以前もそんなことを考えたのかもしれない。
武士のハラキリも美徳だったし、特攻も集団自殺のようなもの。
生きていて幸せも喜びも感じない、将来に希望も持てなければ、自らの幕引きも考える。
気分転換すればいい?
そんな余裕がなくなるほど、思考がスパイラルに負に落ちていくし、考えられない。体に不調が多くて何も気持ちいいとも幸せとも感じられない。
風呂に入る気力さえも消える。
24時間一分一秒を苦痛の中にいれば、生きることを諦めるのを責めたくはない。
それでも自死を美化するのは違うと思う。
きれいな死に方なんてないんですよ。
基本的には。
窒息すれば、肛門括約筋が緩むので糞尿垂れ流しになる。
溺死は肺を水で浸す必要がある。
失血死のためには全血液4〜5Lの1Lを失う必要がある。1Lペットボトルを想像してみる。
放置すれば腐敗する。
腸内のガスは生成され続ける。
高所から飛び降りても生き残る可能性がある。
轢死は路上に稀に見る小動物を想像してみる。
自分はそれを想像して諦めた臆病者です。
死は美ではない。死は醜い。
葬式で見るキレイな仏様は、死化粧やドライアイスやらの人の手がさんざん加わって成し得ている成形品です。
一度は腐った肉の臭いぐらい嗅いだことがあるだろう。
油断していればカラスが生ゴミを撒き散らしてくれるあれ。
人はそれをおそれるようにインプットされているんです。
美しい死なんてない。
死んで復讐もできない。
それでも、最低にまで堕ちれば、あとは上がるしかない。
薬もある。
トレーニングもある。
最低に堕ちた経験があれば、あとは大抵のことに耐えられるし、復帰する方法もわかる。
絶望を知るから強くもなれる。
自分は幸いにして経験していないけれど、戦争こそ地獄だとは思う。
そんなものはやらないほうがいい。
人の命が秒や瞬間で消費される無駄すぎる行為だ。
そんなことを経て、自分が後悔しない生き方は何かを考えるようになった。
他人の顔を見て、空気を読みながら生きる?
そんなことで人生の判断を誤りたくない。
他人は自分の人生の責任は取ってくれない。
だったら自己責任だ。
でも他人のマネをしないで生きるということは、自分ですべてを考えて決めるということでもある。
勉強も必要だ。
他人もコントロールする必要が出てくる。
必要であれば怒るが、必要ないところで怒っても、社会的損失が大きい。
自分の笑い方や喋り方もコントロールし始める。
ズルくなると見るか、それも成長と見るか。
答えなんかないのだけれど。