以下日本経済新聞から引用
***引用始め***
長崎県佐世保市の高校1年、松尾愛和(あいわ)さん(15)が殺害された事件で、殺人容疑で逮捕された女子生徒(16)が「人を殺してみたかった」と話していることが28日、捜査関係者への取材で分かった。遺体のそばからハンマーやのこぎりが押収され、女子生徒が「自分で買った」と供述していることも判明した。
捜査関係者によると、女子生徒は遺体を解体してみたかったという趣旨の供述もしている。
県警は28日、司法解剖の結果、松尾さんの死因は窒息死と明らかにした。女子生徒がハンマーで頭を殴った後にひもで首を絞めて殺害、のこぎりで遺体を切断した可能性があるとみている。県警は市内のホームセンターに購入履歴を問い合わせるなどして入手経路の裏付けを急いでいる。
遺体は首と左手首が切断されていたが、県警によると、これ以外にも、腹部などに複数の切り傷があった。県警は、女子生徒の当時の心理状態を解明するため、精神鑑定を求めることも検討している。女子生徒から反省の言葉は出ていないという。
また、県警によると、女子生徒は自宅マンション前で発見された当時、服に血痕などはなかったことも判明。県警は着替えたとみている。
県警は同日午後、殺人容疑で女子生徒を長崎地検佐世保支部に送検した。送検容疑は26日午後8時ごろ、松尾さんの後頭部を多数回殴り、ひもで首を絞めて殺害した疑い。死亡推定時刻は26日午後8時から10時。
県警によると、女子生徒は殺害に至った経緯を話し始めており「2人で外で遊んだ後、マンションに行った」「一緒に市内で買い物をした」などと話している。県警は防犯カメラの映像や生徒のスマートフォンの記録を解析して事件前後の足取りを調べる。
女子生徒の知人らによると、女子生徒は海外留学予定で、4月からマンションで一人暮らしを始めた。知人は「親元を離れて生活する練習ではないか」と話している。
小学生時代から父らの影響でスポーツに打ち込み、好成績を残した。一方、小学校の給食に異物を混ぜる問題行動を起こしたという。〔共同〕
***引用終わり***
さて、このような問題が表面化すると、マスコミは大々的に取り上げるが、「なぜこんなことをするのか分からない」から、識者に意見を求めようとしているのだろうけれど、そのうちこれはあやふやなものになって行くだろう。
犯人とされている女子生徒は、生と死にものすごく興味を持っていたのだろう。
しかも、特に「死」ということに。
結論から先に言えば、彼女は司法解剖医になるべきだと思う。
「人間誰でも死ぬ。」
当たり前のように使われているが、医学や法医学ではそうも行かない。
「脳死を人の死とする。」
さんざん議論されて、やっと最近決定した。
脳以外の身体の器官は生きているが、脳だけ死んでいるから、死んでいるとする。
これが脳以外の器官であれば、そうはならないだろう。
そして遠くない未来、クローン技術が確立されて、短期間成長や、脳に人の経験をインプットできることが可能になるとする。
その人は、若返っただけのある個人のコピーであり、衰弱死したコピー元は死んでも、個々人は生存し続けることになる。
現在そのような場合の生死の判断や、個人の見分け方などの法整備はされていないが、医学が進めばもちろんそれに対して何らかの法を作らなくてはならなくなるだろう。
「(自分の)クローンを作ってはならない。」という取り決めは、現状の法医学で対処できない問題を大量に作り出すから問題なのだ。
そこで前記女子学生だが、思春期に生死に疑問を持つのは当然だと思う。
その頃になれば、太宰治の「人間失格」も読むだろうし、夢野久作、江戸川乱歩等の、怪奇文学も読む。
表立って読むにあたっては、交友関係を失うので、家でこっそりと読むであろう。
「生命は何のために生き、死ぬのか?」
これは、本来、誰もが抱く根本的な疑問だと思うけど、その正解は分からないからあやふやとなる。
「善悪で判断すればいい話。」
と結論づけることはできる。
でも善悪でさえ時と場合によって、変わってくる。
(例)
問題:川で溺れている人がいる。どうする?
A:助けるために人を呼ぶ。
B:助けるために川に飛び込む。
C:自分が飛び込むと、しがみつかれて一緒に溺れるので、何もせずにいる。
D:近くにあるひもに何か括り付けて投げ込む。
この場合Dが最善策となるが、近くにひもが無ければ何もできない。
Bは一見正しいように見えるが、Cの事態も考えられるので、相当鍛えてない限りやるべきではない。
Aも適切な救助者がいればいいが、いなければ時間の問題。
ここでCの対応。報道されないが、大抵の人はこれをする。
でも、この選択肢の中で、一番ひどい対応はCであることも明らか。
しかし、司法で善悪は問われない。
殺人を犯したとき、犯人は法廷に出廷し、刑罰を決定される。
当たり前のようだが、犯人側にも弁護士がつく。
なぜ悪い人に弁護士がつくのか?
殺人は大変重い罪だ。しかし、殺人に至る経緯にそれ相応の情状酌量の余地があれば、前例のある判決に従い、減刑される。
もちろん犯人に対しても、殺害された遺族に対しても、それ相応の納得が必要であるから、即決判断はできない。
いくらマスコミが「死刑だ!」と断言しても、司法では即決しない。
本当はいろいろ書きたいことがあるが、犯人とされる彼女が司法解剖医を目指せばいいと思ったのはそこである。
もし誰かが、彼女が死について真剣に興味を持っていることに気づいたのであれば、逆に命を救う医学を勧めるべきだったと思うのだ。
「生」と「死」は、相反する状態である。
「死」というものを理解するためには、「生」の意味と価値を知ることが必要だ。
でもそれを教えることができる大人は、なかなかいない。
しかも司法解剖医。
腐乱死体であろうが、白骨遺体であろうが、本当の死因を知るために解剖しなくてはならない。
そういう仕事を進んでやる人間はそういない。
今もそうだが、犯人となった女子高生の判決は難しいものだろう。
しかし、前向きに考えれば、社会にとって必要な人材であるとも言える。
被害者となった女子生徒には大変遺憾に思うが、今を生きている人にとって、どうすればより良い未来を目指せるかを提示したい。
***引用始め***
長崎県佐世保市の高校1年、松尾愛和(あいわ)さん(15)が殺害された事件で、殺人容疑で逮捕された女子生徒(16)が「人を殺してみたかった」と話していることが28日、捜査関係者への取材で分かった。遺体のそばからハンマーやのこぎりが押収され、女子生徒が「自分で買った」と供述していることも判明した。
捜査関係者によると、女子生徒は遺体を解体してみたかったという趣旨の供述もしている。
県警は28日、司法解剖の結果、松尾さんの死因は窒息死と明らかにした。女子生徒がハンマーで頭を殴った後にひもで首を絞めて殺害、のこぎりで遺体を切断した可能性があるとみている。県警は市内のホームセンターに購入履歴を問い合わせるなどして入手経路の裏付けを急いでいる。
遺体は首と左手首が切断されていたが、県警によると、これ以外にも、腹部などに複数の切り傷があった。県警は、女子生徒の当時の心理状態を解明するため、精神鑑定を求めることも検討している。女子生徒から反省の言葉は出ていないという。
また、県警によると、女子生徒は自宅マンション前で発見された当時、服に血痕などはなかったことも判明。県警は着替えたとみている。
県警は同日午後、殺人容疑で女子生徒を長崎地検佐世保支部に送検した。送検容疑は26日午後8時ごろ、松尾さんの後頭部を多数回殴り、ひもで首を絞めて殺害した疑い。死亡推定時刻は26日午後8時から10時。
県警によると、女子生徒は殺害に至った経緯を話し始めており「2人で外で遊んだ後、マンションに行った」「一緒に市内で買い物をした」などと話している。県警は防犯カメラの映像や生徒のスマートフォンの記録を解析して事件前後の足取りを調べる。
女子生徒の知人らによると、女子生徒は海外留学予定で、4月からマンションで一人暮らしを始めた。知人は「親元を離れて生活する練習ではないか」と話している。
小学生時代から父らの影響でスポーツに打ち込み、好成績を残した。一方、小学校の給食に異物を混ぜる問題行動を起こしたという。〔共同〕
***引用終わり***
さて、このような問題が表面化すると、マスコミは大々的に取り上げるが、「なぜこんなことをするのか分からない」から、識者に意見を求めようとしているのだろうけれど、そのうちこれはあやふやなものになって行くだろう。
犯人とされている女子生徒は、生と死にものすごく興味を持っていたのだろう。
しかも、特に「死」ということに。
結論から先に言えば、彼女は司法解剖医になるべきだと思う。
「人間誰でも死ぬ。」
当たり前のように使われているが、医学や法医学ではそうも行かない。
「脳死を人の死とする。」
さんざん議論されて、やっと最近決定した。
脳以外の身体の器官は生きているが、脳だけ死んでいるから、死んでいるとする。
これが脳以外の器官であれば、そうはならないだろう。
そして遠くない未来、クローン技術が確立されて、短期間成長や、脳に人の経験をインプットできることが可能になるとする。
その人は、若返っただけのある個人のコピーであり、衰弱死したコピー元は死んでも、個々人は生存し続けることになる。
現在そのような場合の生死の判断や、個人の見分け方などの法整備はされていないが、医学が進めばもちろんそれに対して何らかの法を作らなくてはならなくなるだろう。
「(自分の)クローンを作ってはならない。」という取り決めは、現状の法医学で対処できない問題を大量に作り出すから問題なのだ。
そこで前記女子学生だが、思春期に生死に疑問を持つのは当然だと思う。
その頃になれば、太宰治の「人間失格」も読むだろうし、夢野久作、江戸川乱歩等の、怪奇文学も読む。
表立って読むにあたっては、交友関係を失うので、家でこっそりと読むであろう。
「生命は何のために生き、死ぬのか?」
これは、本来、誰もが抱く根本的な疑問だと思うけど、その正解は分からないからあやふやとなる。
「善悪で判断すればいい話。」
と結論づけることはできる。
でも善悪でさえ時と場合によって、変わってくる。
(例)
問題:川で溺れている人がいる。どうする?
A:助けるために人を呼ぶ。
B:助けるために川に飛び込む。
C:自分が飛び込むと、しがみつかれて一緒に溺れるので、何もせずにいる。
D:近くにあるひもに何か括り付けて投げ込む。
この場合Dが最善策となるが、近くにひもが無ければ何もできない。
Bは一見正しいように見えるが、Cの事態も考えられるので、相当鍛えてない限りやるべきではない。
Aも適切な救助者がいればいいが、いなければ時間の問題。
ここでCの対応。報道されないが、大抵の人はこれをする。
でも、この選択肢の中で、一番ひどい対応はCであることも明らか。
しかし、司法で善悪は問われない。
殺人を犯したとき、犯人は法廷に出廷し、刑罰を決定される。
当たり前のようだが、犯人側にも弁護士がつく。
なぜ悪い人に弁護士がつくのか?
殺人は大変重い罪だ。しかし、殺人に至る経緯にそれ相応の情状酌量の余地があれば、前例のある判決に従い、減刑される。
もちろん犯人に対しても、殺害された遺族に対しても、それ相応の納得が必要であるから、即決判断はできない。
いくらマスコミが「死刑だ!」と断言しても、司法では即決しない。
本当はいろいろ書きたいことがあるが、犯人とされる彼女が司法解剖医を目指せばいいと思ったのはそこである。
もし誰かが、彼女が死について真剣に興味を持っていることに気づいたのであれば、逆に命を救う医学を勧めるべきだったと思うのだ。
「生」と「死」は、相反する状態である。
「死」というものを理解するためには、「生」の意味と価値を知ることが必要だ。
でもそれを教えることができる大人は、なかなかいない。
しかも司法解剖医。
腐乱死体であろうが、白骨遺体であろうが、本当の死因を知るために解剖しなくてはならない。
そういう仕事を進んでやる人間はそういない。
今もそうだが、犯人となった女子高生の判決は難しいものだろう。
しかし、前向きに考えれば、社会にとって必要な人材であるとも言える。
被害者となった女子生徒には大変遺憾に思うが、今を生きている人にとって、どうすればより良い未来を目指せるかを提示したい。