最近本田宗一郎の言葉が気になる。
「3つの喜び」
「自分のために働け」
今の解釈と、当時本田宗一郎が考えていたことに違いがあるように感じる。
上の二つの言葉が、現在では相反してしまうことにそれが見て取れる。
現在の解釈では3つの喜びは、こうなっている。
1、買う喜び
2、売る喜び
3、造る喜び
「お客様が買って良かったという喜びが1番だろう。」
という観点から並べ替えたわけだ。
でもこうすると、自分のために働けという言葉に違和感を感じる。
「お客様の喜びのために、働いているんだ!」
どうだろう?
違わないか?
私の結論は、本田宗一郎はそれを踏まえた上で、「造る喜び」を最初にしたのだろうと思う。
「働く」という言葉の根源を考える。
私たちには勤労の義務がある。
よく就職前の大学生に聞いた質問がある。
「君は何のために働くの?」
「お金を稼ぐため。」
「ふむ。お金を稼ぐのならいろいろな方法があるよね?騙すとか、奪うとか。そういう手段は使わないの?」
「それはいけないことだから。」
これ以上追求するのはやめておくのだけど。
例として、母親の仕事を考える。
出産、育児、家事をこなして子供を育てる。そういった家事に裁判で労働賃金を要求することが稀にあるが、それはなんだか違う様に感じないだろうか?
他の例として、ボランティアという行為を考える。災害が起これば、とりあえず「微力ながら力になろう」と集まる人がいる。
これは昨年の大雪の際に集まったボランティア達。
この人たちは、お金を得るために働いているか?
基本的には金銭物品をもらってはならない。当たり前だけど。
上記の「お金のために働く」という価値概念では測れなくなってくる。
働くことを再定義する。
自分のできる活動を社会に還元することにより、自らも健康的な生活を送ることができる。
そう定義すると、3つの喜びは、最初に本田宗一郎が言った順番の通りで良いということになる。
1、造る喜び
2、売る喜び
3、買う喜び
なぜなら私達は技術者なのであり、その力を還元するために働いているのだから。
従って、
自分のために働け
という言葉も、上記の働くという意味で成り立つ。
これはボーイスカウトの朝礼で、リーダーの言った言葉から思っていた。
「君たちは奉仕活動をした。奉仕って一体誰のためにしている?わからないか?それは自分のためだ。
今日ゴミを拾った。他の人がゴミのない道路を歩いたら気分がいいだろ?逆に道路にゴミが散乱しているのを見た他の人は、怒ってしまうかもしれない。
何十人もの人が、その道路で嫌な思いをしたら、いずれその怒りは自分に返ってくる。
それは嫌だろう?
逆に綺麗な道路を歩いた人は、優しい気持ちになるかもしれない。
その優しい気持ちが自分に返ってくるかもしれない。
だから、自分たちのために奉仕はするんだ。」
近くにいた人に聞いた。
「本田宗一郎も同じようなことを言っていましたよ?」
「ああ、本田宗一郎もかつてはボーイスカウトに関わっていたからな。」
これを踏まえてもう一段階、上位概念を考える。
愛のない行為は、破綻する。
母親の仕事は愛というなんだか漠然とした概念によってなされている。
どんなに割が合わないと思っても相手のために行うのが愛。
経済活動の根幹部分だって、愛がない行動は、それなりの憎しみとなって返ってくる。
松下幸之助の言葉には愛が溢れている。
向こう三軒両隣。
朝、庭を掃くけども、自分のところだけじゃなく、隣の家まで掃いてしまう。
昭和の創業者の言葉を鑑みると、その殆どが愛を前提としている。
なぜ二股電球ソケットを発明したか?
なぜカブを発明したか?
その原点にこそ働くことの意味があると思う。
「3つの喜び」
「自分のために働け」
今の解釈と、当時本田宗一郎が考えていたことに違いがあるように感じる。
上の二つの言葉が、現在では相反してしまうことにそれが見て取れる。
現在の解釈では3つの喜びは、こうなっている。
1、買う喜び
2、売る喜び
3、造る喜び
「お客様が買って良かったという喜びが1番だろう。」
という観点から並べ替えたわけだ。
でもこうすると、自分のために働けという言葉に違和感を感じる。
「お客様の喜びのために、働いているんだ!」
どうだろう?
違わないか?
私の結論は、本田宗一郎はそれを踏まえた上で、「造る喜び」を最初にしたのだろうと思う。
「働く」という言葉の根源を考える。
私たちには勤労の義務がある。
よく就職前の大学生に聞いた質問がある。
「君は何のために働くの?」
「お金を稼ぐため。」
「ふむ。お金を稼ぐのならいろいろな方法があるよね?騙すとか、奪うとか。そういう手段は使わないの?」
「それはいけないことだから。」
これ以上追求するのはやめておくのだけど。
例として、母親の仕事を考える。
出産、育児、家事をこなして子供を育てる。そういった家事に裁判で労働賃金を要求することが稀にあるが、それはなんだか違う様に感じないだろうか?
他の例として、ボランティアという行為を考える。災害が起これば、とりあえず「微力ながら力になろう」と集まる人がいる。
これは昨年の大雪の際に集まったボランティア達。
この人たちは、お金を得るために働いているか?
基本的には金銭物品をもらってはならない。当たり前だけど。
上記の「お金のために働く」という価値概念では測れなくなってくる。
働くことを再定義する。
自分のできる活動を社会に還元することにより、自らも健康的な生活を送ることができる。
そう定義すると、3つの喜びは、最初に本田宗一郎が言った順番の通りで良いということになる。
1、造る喜び
2、売る喜び
3、買う喜び
なぜなら私達は技術者なのであり、その力を還元するために働いているのだから。
従って、
自分のために働け
という言葉も、上記の働くという意味で成り立つ。
これはボーイスカウトの朝礼で、リーダーの言った言葉から思っていた。
「君たちは奉仕活動をした。奉仕って一体誰のためにしている?わからないか?それは自分のためだ。
今日ゴミを拾った。他の人がゴミのない道路を歩いたら気分がいいだろ?逆に道路にゴミが散乱しているのを見た他の人は、怒ってしまうかもしれない。
何十人もの人が、その道路で嫌な思いをしたら、いずれその怒りは自分に返ってくる。
それは嫌だろう?
逆に綺麗な道路を歩いた人は、優しい気持ちになるかもしれない。
その優しい気持ちが自分に返ってくるかもしれない。
だから、自分たちのために奉仕はするんだ。」
近くにいた人に聞いた。
「本田宗一郎も同じようなことを言っていましたよ?」
「ああ、本田宗一郎もかつてはボーイスカウトに関わっていたからな。」
これを踏まえてもう一段階、上位概念を考える。
愛のない行為は、破綻する。
母親の仕事は愛というなんだか漠然とした概念によってなされている。
どんなに割が合わないと思っても相手のために行うのが愛。
経済活動の根幹部分だって、愛がない行動は、それなりの憎しみとなって返ってくる。
松下幸之助の言葉には愛が溢れている。
向こう三軒両隣。
朝、庭を掃くけども、自分のところだけじゃなく、隣の家まで掃いてしまう。
昭和の創業者の言葉を鑑みると、その殆どが愛を前提としている。
なぜ二股電球ソケットを発明したか?
なぜカブを発明したか?
その原点にこそ働くことの意味があると思う。