今の職場の仲間たちと話題になった話。
パーツクリーナーを台所で使っていたらコンロの火に引火して爆発した話をしたら、
「そういえば北海道で消臭スプレーが爆発したじゃない」
「なんであんなことするのかねぇ」
「車いじる人はスプレーに火は厳禁だよねぇ」
という話から続きます。
最近の子供たちは爆竹やかんしゃく玉やロケット花火なんかで遊ばないよねと。
ライターロックされているし。
昆虫なんかを捕まえて、爆竹爆破なんかしたもんだと。
投げ爆竹や投げロケット花火なんかやって危ない思いもした。
その経験があったからこそ、今なぜあんな残酷なことをしたんだろうと振り返られる。
苦い経験や失敗を止めて咎めるんじゃなく、あえてやらせることも教育なんじゃないか。
という仮説。
ショッピングセンターの中にある職場なので、泣きわめく子供なんかも通る。
駄々をこねて泣きわめくことができるのも、その駄々をかなえてくれる親がいるからこそだよなぁ。
泣きわめくことができるのも今のうちだけなんだ。
親以外の大人に泣きわめいたって、放っておかれるか冷たくあしらわれるか。
それこそ最悪なこともある。
「突っ込み待ち」
の人は結構いる。
あえて間違えて誰かの突っ込みを待つ人。
そういったコミュニケーションをするように育てられた可能性もある。
あえて放ってやらせてみるという選択肢もあるのだろうと思うときがありますね。最近は。大人も子供もともに。
「失敗は成功の母」とも聞いたことがあります。
失敗を乗り越える力は結局のところ自分自身にしかないわけです。
絶望を克服する方法といえるかもしれません。
自分の常識をひっくり返すのは他人ではなく自分自身なんです。
人生の一大決心もそうだし、数多くのものごとに対する選択肢は、個々人の特性によって千差万別なんです。
答えは一つじゃない。
「結婚はいいぞ」と言われたから結婚したのでは、自分も相手も幸せにならない。
自分たちが幸せになる方法の一つとして結婚がある。
その程度の認識でもいいと思う。
そんなことを最近よく考えています。
会社を辞めたのはいいけれど、生活費の支払いが大変です。
それは十分承知して辞めたので特に問題はありませんし、他の人に転職や退職を無理強いしても意味がないのです。
当人が決めることですから。
そんな感じですね。