しのの気まぐれ日記

(たぶん携帯から)つれづれなるままに書込みします。
ツッコミOK!!(カマン)
題or画像をクリックで元の大きさに。

圭介像から横に反れた

2010年12月21日 23時56分36秒 | 資料話?付
圭介像の博覧会記録を探していたはずが、なぜかフォンタネージ先生と女生徒達の写真の中からヒナちゃんを探すモードになってしまって、一人ずつ調べてたら、まず男の人を探しちゃったよ。
その人は、調べなくてもひなちゃんではないだろう…。
左の男の人は、イタリア語の通訳の竹中五郎さんだったよ。
で、この中で一番有名であろう山下りん(輪)ちゃんは前列右。
もう一人女流画家として生きた神中糸ちゃんは前列左(一番圭介に似てる気がして、私の中では、ひなちゃん候補だったんだけどな)。
後の4人は未確定ですが、企業史とか調べれば出てくるかなぁ?
と言うのも、後の4人は
大鳥雛子:大鳥圭介の娘
秋保(中島)園:写真家中島待乳の妻、中島は幻燈の製作に力を入れていて、その彩色を園がしたため『待乳園式幻燈』として、輸出もされている。
山室(岡村)政子:後の東洋印刷㈱である信陽堂を夫の岡村竹四郎と開設。
川路花:川路聖謨のの息子の外務省外国文書課長川路温の妻で、息子が詩人川路柳虹

まあでも、一番写真が出てくる可能性が薄いのは花ちゃんかな。
川路聖謨のさんに反対された結婚だったっぽいしな…。
まあ残りの人たちも気長に答え合わせをしていこうと思います。


で、女学生は6人だとずっと思っていたのですが、実は7人だったようです。
いや、『明治10年3月 女子学生6人入校』ってのが、上の6人だと思い込んでいたのですが、神中糸ちゃんだけ入校が遅いらしいんですね。
で、このときの6人のもう一人はと言うと、須川蝶さんと言って、明治10年7月に退校していたようです。
どんな素姓の人かもちょっと分からないんですよね…。
情報求む!!
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圭介題字

2010年05月30日 17時40分25秒 | 資料話?付
昨日、圭介が字を書いた碑を見に行ってきたので、ちゃんと日記を書こうとしたのに、帰ったら速効寝てました(笑)

写真の碑の名前部分を拡大すると、こんなん↓


峠之御頭頌徳碑と言いまして、中山道にある馬篭宿の近くにあります。
今井仁兵衛さんと言う方への感謝を表した碑で島崎広助さんという島崎藤村さんのお兄さんが作ろうって言って出来ました。
ただ、この方々と圭介の接点が分かんないんですよね?
あ、今井仁兵衛さん自身の事は、島崎藤村の『夜明け前』に出てきます。
この碑の隣にこの方を称えた碑が並んで立ってます。
こんな感じ↓


石の色合いのせいなのか、年月がたってるせいなのかいまいち分かりませんが、かなり読みにくかったです、後で追加して書きますね。

中に倹素とかって文字があったけど、決して『まさか、圭介の倹素仲間v』とか思ってないですから。
…嘘、ちょっと思った。

あ、一つ大事な情報を書き忘れてた。
車が通る道からは、碑の字は、ほぼ見えません。
中山道側からは見える感じ。
でも初夏なので、草が生い茂っているのです、隠れるまでは行ってないけど。
見に行く人は、見落とさないように気をつけてください、私は車で一回通り過ぎました。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

自古為郷郡之師表者豈営機智過人而巳高必有其徳量以
○人者而超然事物之表不求聞達是以其聲名不傳者多矣
若峠之御頭今井仁兵衛翁即其人也翁岐蘇人天資寛厚状
○温雅有伏氣赴人之急則蜜水火不避凡有郷人争是非曲
直者莫不待其裁断翁暁喩妙鮮立辡之待其心服而止若遇
事難決者朗把持愈固鎮宣精詳莫発不中故四方景慕隠然
為郷黨之望者数十年干茲矣厄長理財郷人浴其恵者不遑
枚挙翁自奉倹素不乗車不着絹布清白庶潔旬非其義則一
介不取頗有古君子之風焉今茲七十六歳嬰鑠不譲壮者高
風秀骨談笑生春和氣可親而子孫振々極其繁栄世住馬篭
峠頭當奉峠組頭之職部下尊称曰御頭郷人至今尚称峠之
御頭又峠之如来而不名苟非徳量洲深善服人者安能至峡
孚頃者固志胥謀卜地信州西筑广郡神坂村欲建碑頌徳友
島崎君嘱余撰之文固辞不聴之銘曰

馬篭嶺頭 爰生真人 稜々風骨 巌々精神
鮮○排難 其智超倫 愛客下士 其徳有鄰
郷黨家澤 功無万春

明治三十五年十月 紫山川崎三郎撰 西澤清洲書
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太陽

2010年04月05日 23時17分44秒 | 資料話?付
『現代人物 大鳥圭介』が載っている号を買ったと以前書きましたが、これ連載だった!!
買った号は連載六回目だったよ、しかも書き出しが『少し話が前後しますが、~』から始まるので、これ以前の連載や、これ以後の連載がどの辺の話かも分かりませんよ。
しかし、この号で圭介が斎彬様が好きなことは分かります。
そして田町台場を作ってた頃、圭介は斎彬様の事を『太守様』と呼んでいたみたいです。
あと斎彬様は圭介に写真の道具を誂えさせて、天璋院が嫁に行く前に撮ろうとしたらしいです。
圭介は『時間的に綺麗なの無理です~、とりあえず手順は教えますけど~(意訳)』みたいな感じで渡したのが、一ヶ月後の薩摩屋敷で留守居役の井上荘太郎さんって方に、綺麗に撮れた『お姫様』の写真を見せて貰ったそうです。
・・・薩摩パネェ!!
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銅像No.2

2010年03月19日 00時03分54秒 | 資料話?付
明治の頃の札幌中央大通りの黒田の銅像が写ってる写真を見たんですが・・・。
今の銅像と違うんですが!!
多分軍服にコート姿で、台座は今より低そうかな。
つーか、銅像の手前にある横幅3mぐらいの道が札幌中央大通りなのかな?
まあ、道の回りも草原なんで大型車両も通れるけどね(通りません)。
ケブロンさんもいないし、黒田がヘタレっぽくなくて寂しいので、今の銅像が良いです。
でも本音を言えば、この銅像も見てみたいなぁ。
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銅像

2010年03月17日 23時42分46秒 | 資料話?付
東大工学部前の植え込みにコンドル先生と向かい合って建ってる胸像も工部大学校の先生をやっていた人なんですね。
しかも、銅像の原型の石膏像も東大工学部が持ってるらしい。
チャールズ・ディキンスン・ウェストさんと言うアイルランド生まれのイギリス人で、専門は機械工学&造船。
明治15年に工部大学校に招かれ、引き続き東京帝国大学工科大学造船科の主任教授として25年間在籍。
住んでいたのは帝国大学の教師館の五番館に五番館が壊される前まですんでて、その後一校寄りの垣根の脇に建てられた新しい教師館に住んでたってことなんですが、工部大学校の頃の住居情報が見当たりません?
このウェストさんは、生涯独身で、お子さんもいらっしゃらなかったそうで、日本でお亡くなりになり青山墓地に埋葬されたそうです。
花作りがお好きで、庭で薔薇や白粉花を育てていらしたそうです。

他にも東大の敷地内には工部大学校関係の方の銅像がいくつかあります。
まず、コンドル先生は有名ですね、他に先生としては化学講師のエドワード・ダイヴァース。
生徒では、機械工学科卒業の三好晋六郎君。

工部大学校は関係ないけど、一部の大鳥圭介ファンの中で人気な古市公威と山川の健ちゃんの銅像もあるよ~。
良いな、東大ももう一回行きたいよ~。
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今日フィギュアがあるので

2009年08月02日 09時49分51秒 | 資料話?付
お父上と織田君の話になり
「信長さまの子孫って、なんで生きてるん?」
って話が出たので、今日は織田家を行ってみようかと思います!!
ってか、家のサイトって、大鳥サイトでも明治サイトでも幕末サイトでもなくしのサイトらしいので、好きなものを好きなだけ書いちゃえば良いらしいですよ~
じゃあ、下から『その後の織田家』

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

まず本能寺の変の時に信長さまと、嫡男の信忠君(実はこの時点ではもう信忠君が織田の当主なんだけどね)が亡くなってます。
場所は信長さまは本能寺で、信忠君は二条御所(後の二条城)。
その後、織田家を継いだのは信忠君の長男の三法師君、元服後は秀信と名乗ります。
三法師君は最初安土城に入りますが、翌年信長の次男信雄も安土城入り、そしてその翌年に秀吉と喧嘩して負けます。
6歳になった三法師君は秀吉に岐阜を貰うのでそっちにお引越ししてボーっと過ごすのですがで秀吉の死後、光成方につき、しかも関ヶ原より前に降伏…
出家して高野山に入るんですが、追放…、僧を切ったとか、乱行を働いたとか、諸説ありますが詳しくは分からないようです。
信忠のにはもう一人秀則という男子もいたのですが、秀吉に仕えて京都で静かに暮らしてたらしいです、子供もいなかったそうなので、嫡流は断絶。
しかし、4.5.7.9男の家は現在まで続いています。
四男信良の系統は、上野小幡藩を経て出羽高畠藩、天童藩に。
五男高長の系統は、大和宇陀松山藩、丹羽柏原藩に。

4.5男の系統は、それぞれ二万石の小藩ながら信長の末裔って知名度は抜群のため、幕府からは、国主並みの待遇を受け、明治に入ってからも子爵位を与えられています。

七男信高九男信貞の系統も江戸時代は高家旗本として続いています。

フィギュアの織田君は、七男信高の直系の子孫(信長から17代目)です。
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内匠寮

2009年04月23日 00時27分51秒 | 資料話?付
今日は宮内省をクローズUPってことで!!
つーても工部大学校生と工部美術学校生ONLYで!!

まあ、宮内省内匠寮と言えば工部大学校一期生の片山東熊ですが、この内匠寮という組織は簡単に言っちゃえば明治以降の宮廷建築の造営・管理・修復などをする部署です。
ここは何気に工部大学校生がいたりするんだよ~。
以下、内匠寮経験者の略歴を載せますが、まあ、東熊と金吾(造家:M14卒)、あと田辺朔郎(土木:M16卒)は有名なので省略します。

◎工部大学校卒業生

藤本壽吉(造家:M13卒)
安政二年、大分県生、M13年に工部大学校を第一等及第で卒業の翌年には文部省の建物を手掛けます。
M17年10月20日に宮内省御用係、M18年12月28日に内匠寮に入る。
この後、三菱にも入っているはずなんですが何年に入社か不明。
M28年永眠
主な作品:明治会堂、箱根離宮
備考:福沢諭吉の甥(なので、そこの諭吉ファンのあなた、藤モンを調べて見ませんか!!)

中村達太郎(造家:M15卒)
安政七年生、M15年に工部大学校を第二等及第で卒業後すぐに工部省技手として営繕局勤務。
M16年皇居御造営事務所出仕。
M20年東京帝国大学工科大学助教授、M27~T10年には教授として在籍。
講義は建築構造・建築材料・建築史に加え、時代が下ると建築衛生学なども教えている。
M25~26年に欧米に留学。
M27年には震災予防審査会委員とかやってるし、その他にも建築学会初期の会務・会誌編集をしたりして、色々忙しそうだ。
建築条例実行委員会委員長として建築法令を完成させたのも、この人です。
S17年永眠。
主な作品:改良演芸会会場
主な著作:「建築学階梯」「日本建築辞彙」「火災予防、建築設備」
備考:日本構造学の祖と言われている。

久米民之介(土木:M17卒)
文久元年、群馬生まれ。
工部大学校卒業後工学士の称号を得て、皇居御造営御用係を拝命、皇居二重橋の設計・造営を担当。
工部大学校教授を務めた後、大蔵組入社し佐世保鎮守府開鑿工事に従事。
M33年に独立して久米工事事務所を設立し、日本・朝鮮・台湾の鉄道を中心とした土木工事を行う。
ただし、この人は土木にとどまらず、煙草の製造販売や生命保険会社の多角経営を展開。
M31年には代議士となり、以後も軍部の推薦を受け衆議院議員を務める。
S6年永眠。

◎工部美術学校卒業生

佐野昭(M15卒)
卒業後、皇居御造営事務局雇となり、廃局後も内匠寮に留まる。
M28年、内匠寮技手。
M31年から東宮御所御造営局技手。
M33年には、彫刻の取り調べ・暖炉前飾り購入などのため欧州へ出張。
M37年、退官。
しかし退官後も御用係として室内装飾関係業務に従事する。
備考:国会議事堂の建設時の模型担当

山口直昭(M15卒)
M20年に臨時建築局雇となり、ついで内務省土木局雇として裁判所新築工事の製図を担当(工部大学校卒じゃなくて、工部美術学校卒ですよv)。
その後、台湾総督府技手⇒兵庫県工手⇒秋田県工師をへた後。
M38年に東宮御所御造営局御用係として、設計関係業務に従事するが、M39年辞任。


そんな所かな。
東宮御所御造営局とか、今回入ってない工部大学校生とかいるので、そのうちそっちも書きますね。
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圭介→釜 By報知新聞が読みたい

2009年04月13日 23時05分19秒 | 資料話?付
釜さんへの追悼談としてM41.10.28に「維新以来生死を共にせし榎本子」って圭介爺ちゃんの談話が載っているらしいんですが、報知新聞こっちの方では置いてないんですよね。
圭介と釜さんが初めて会ったのは中浜塾だってのが書いてあるらしいので読んでみたいんですけどね。
以前HさんのHPで紹介されていたM41.10.11の毎日新聞の記事「如楓翁の見たる榎本子」とは違う内容なんだなと思って…。
詳しいことが分からないと、脳内でとても新聞には載せられない出会いからあんなことまで想像しちゃうじゃないですか(笑)

中浜塾と言えば、万次郎さんの日記の残ってる部分安政6年7~10月までの中に、圭介の中浜塾入門が載ってるんですよ!!
入門は9月18日だそうですよ!!
つーかね、圭介凄い頻繁に中浜塾に通ってるみたいなんですけど、安政の大獄始まってるんですけど、大丈夫なんですかね!!
いや、大丈夫だったからその後があるんだけどさ!!
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予告した『富士太郎ネタ?』

2009年04月02日 01時11分40秒 | 資料話?付
大鳥家ネタって言ってもいいかな?
去年の年末に『田健治郎日記 1』が出版されました。
明治39年~43年までの田健治郎(でんけんじろう)さんの日記です。
この中に富士太郎つーか、圭介も、ちょっろっとですが出てきます。
しかも何気に親しそう!!
まあ、逓信省にいたり、台湾総督や枢密顧問官もやってる方なので、大鳥一家とはあちこちでお顔を合わせていそうです。

その中の明治43年3月8日(晴)の日を抜粋します。

『午前大鳥圭介男の病重しと聞き、三河台町邸に之を訪ふ。家人曰く、老疾荏苒佳からず、今国府津別荘に病を養い、息富士太郎浦塩(ウラジオストク)より帰り、別荘に在りて侍養す云々、と。』

つーか富士太郎って明治42年にウラジオストクの初代総領事になったばかりだったのに、もう43年には帰ってきてたんですね。
じゃあ、領事職を離任する際に富士太郎からウラジオストク市長に宛てて出された「この地を去るのは残念です~なんちゃらかんちゃら~仕事は今度から副領事の二瓶によろしく~なんちゃらかんちゃら~。Отори Фудзитаро(オオトリ フジタロ)」ってのは、この時のか!!
もうこの時の書類はタイプライターで打ってあるから綺麗なんだそうですよ!!
ついでにウラジオストクつながりでもうひとつ言うと、富士太郎はウラジオストクの初代総領事ですが、もっと前から日本の貿易事務館はありますのでロシアの文書館にちゃんと書類も保存されているそうです。
ウラジオストク貿易事務館というと、そうです五稜郭副総裁松平太郎さんですね、彼のロシア語の綴りは『Мацудайро Таро』です。
ロシアの文書館に行かれる際には探してみるのも一興かもしれませんよ。
タロさんの時代は直筆らしいですしv

おっと話がそれましたね。
田さんはどうも家族も大鳥家と付合いがあったようで、6月には田さんの息子夫婦が国府津まで圭介のお見舞いに来ていたり。
富士太郎や大鳥夫人(圭介の妻[妾]か富士太郎の妻かは不明)が家に来てたりします。
つーか、明治39年からしかないのが残念なんですけど!!
もっと前だったら圭介がもっと出てくるかもしれないのに!!

って言っても、まだ大鳥家が係わってきてそうな部分しか見ていないので、良い箇所を見逃している可能性もあるかも!!
しかも、さり気に知っている名前がチラチラ出てくるから気になるよ。
って訳で、ニヨニヨしながら読み進めていこうと思います。
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ペリーとハリス

2008年12月22日 02時30分46秒 | 資料話?付
今年の始め頃に江戸東京博物館で、やっていた『ペリーとハリス』展が名古屋ボストン美術館で開催されていたので行って来ました。

美術館には映像コーナーもあって、三種類の映像が上映されていたのですが、その中の『幕末明治の美術』という映像のなかに圭介がいました!!
工部美術学校のフォンタネージ先生との集合写真だから珍しくはないのですが、まさか写るとは思っていなかったので心の準備をしてなかった!!
まさにサプライズプレゼントを貰った気分です。
御礼はサンタさんで良いのでしょうか?それともフォンタネージ先生の御墓参りに行けってことでしょうか?

まあ、アメリカさんとの間の記念展示なので、良かった面が強調されていましたが、幕府の評価が低すぎです。
ちゃんと数ある諸外国の中からアメリカさんを最初の交渉相手に選んだ理由とかがゴッソリ抜けてる。
黒船がって言うなら、ロシアのが早いし、書面での勧告ならヨーロッパのいくつかの国のが早い。
その中でアメリカは一番提督単品での権力が弱いんですよね、イギリスとかだと宣戦布告も本国に問合せる必要もないし、裁判も処刑も艦長が勝手にできる。
もちろんアメリカ海軍だって似たような所はありますが、緊急事態でもないときにはそこまで勝手には出来ませんでした。
とか、全く説明されてないし。
不平等条約にしたって、当時の政府が意図した訳ではないけど、結果的にアノ不平等条約があったからこそ諸外国は清の様に日本を攻めなかったという側面があるとか(わざわざ戦争を起こして、利権を手放す必要が無いって事とか)。
こんな展示を見に来る人なら歴史好きが多いんだから、そういう切り口の展示も有って良いと思うんです。

でも愛知特有の展示だと思われるものもいくつかありましたよ、愛知出身の岩瀬忠震(米・蘭・露・英・仏の五ヶ国との通商条約全ての調印者で、井伊大老が調印で批判されたとき『俺が病気で城に居なかった日に岩瀬が勝手にしたんだもん』って責任をなすりつけようとした人、横浜に顕彰碑があるらしい)の展示品が、明らかに江戸東京博物館が作った目録に載ってるより多かった。
あんまり注目したことがなかったのですが、今度からちゃんと気を付けてみようと思います。

あと印象深かったのは、アメリカ国旗の星が31個の頃なんですが、配置がめっちゃフリーダムでした(笑)
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