もう10年以上も前、NHKで立花隆の「臨死体験」を観ました。
死に目にあった人(臨死体験した人)は、『お花畑が見えた』『まばゆい光に包まれた』など、えもいわれぬ幸福感に満ちた経験として死を語るそうですが、「実は脳の一部を物理的に刺激すると、人は同じように幸福感を覚える」と報告されていました。脳に電気を流された被験者が『ああ、まばゆい光が見えます』とか、『妙なる音楽が聴こえます』とか言っている。つまりお花畑も、光も、三途の川も、美しい調べも、全て脳が作り出した現象なのだと。
これはいったい、何なのか。
種としてもう死ぬだけの段階で、なぜこのような装置が働くのか。
その脳内装置を発見した科学者の問いで、番組は終わっていました。
私はその時、肉体というステージの次に、何かが用意されているようなほのかな期待を覚えたのですが。
同僚に話してみて、彼らの答えに(げっ)と思いました。
ああ、それ。きっとレミングみたいなもんだよね。
数が増えすぎて種として数を減らさなきゃならない時、レミングみたいに自殺するのに恐怖感を覚えないようにしなきゃいけないもんね。
私はその時、(揃いも揃って何て考え方をするんだ)と思いました。
死にあたりそのような装置が働くのであれば、それは痛みや恐怖を緩和させるための一種の救いではないかと、今では私は思います。
確かに種として最後の段階にそんなものがあっても意味ないだろう、とは思いますが。
目的は何であれ、非常時に備えて用意されているという点には、肯けるものがあります。
最後の時は、痛くなく、怖くもないといいよね。
死に目にあった人(臨死体験した人)は、『お花畑が見えた』『まばゆい光に包まれた』など、えもいわれぬ幸福感に満ちた経験として死を語るそうですが、「実は脳の一部を物理的に刺激すると、人は同じように幸福感を覚える」と報告されていました。脳に電気を流された被験者が『ああ、まばゆい光が見えます』とか、『妙なる音楽が聴こえます』とか言っている。つまりお花畑も、光も、三途の川も、美しい調べも、全て脳が作り出した現象なのだと。
これはいったい、何なのか。
種としてもう死ぬだけの段階で、なぜこのような装置が働くのか。
その脳内装置を発見した科学者の問いで、番組は終わっていました。
私はその時、肉体というステージの次に、何かが用意されているようなほのかな期待を覚えたのですが。
同僚に話してみて、彼らの答えに(げっ)と思いました。
ああ、それ。きっとレミングみたいなもんだよね。
数が増えすぎて種として数を減らさなきゃならない時、レミングみたいに自殺するのに恐怖感を覚えないようにしなきゃいけないもんね。
私はその時、(揃いも揃って何て考え方をするんだ)と思いました。
死にあたりそのような装置が働くのであれば、それは痛みや恐怖を緩和させるための一種の救いではないかと、今では私は思います。
確かに種として最後の段階にそんなものがあっても意味ないだろう、とは思いますが。
目的は何であれ、非常時に備えて用意されているという点には、肯けるものがあります。
最後の時は、痛くなく、怖くもないといいよね。