獅子風蓮のつぶやきブログ

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増田弘『石橋湛山』を読む。(その3)

2024-03-09 01:30:50 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。


湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
■第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第1章 幼年・少年・青年期
□1)おいたち... 日蓮宗を空気として
■2)山梨県立第一中学校...アメリカン・デモクラシーへの誘い
□3)早稲田大学...プラグマティズムの感動
□4)東京毎日新聞社... 人生の転回点
□5)東洋経済新報社...再スタート


2)山梨県立第一中学校...アメリカン・デモクラシーへの誘い

翌1895年(明治28)4月、湛山は当時県内で唯一の甲府市の山梨県立尋常中学校(のち第一中学校を経て現在の甲府第一高等学校)に入学した。鏡中条村高等小学校を2年修了(通常は4年)しただけであったが、同校からただ一人入試に合格したのである。エリート・コースへと一歩踏み出したといってよい。ところが湛山はこの中学時代に二度も落第した。「生来の怠け者でうぬぼれがあった」とは本人の弁であるが、一つには同期生と比べて2歳年少であり、体力的に劣っていたであろうこと(体操はいつも落第点に近かった)と、もう一つ、やはり父母を欠いた生活上ないし精神面での不安定さが影響したのではないかと想像できる。

日謙に預けられてからの湛山は、寺の修行僧数名とともに、掃除や給仕など朝夕の雑事一切を行なう訓練を受けた。その結果、湛山は雑事をいとわず、何でも自分でこなす習慣を身につけた。その一方で湛山は、鏡中条村と中学との通学路10キロほどを往復する間に買い食いし、挙句の果て、月謝を使い込むという悪童ぶりを発揮した。ただし日謙は湛山を少しも叱らず、黙って学校側に返済して、湛山を恐縮、反省させた。しかも二度落第したことで、湛山は大島正健(1859―1938)校長に巡り合い、大島から「一生を支配する影響を受けた」のである(前掲『湛山回想』22頁)。まさに塞翁が馬であった。

大島は札幌農学校(北海道大学の前身)第一期卒業生13名中のひとりで、ウィリアム・クラーク(William S. Clark)博士から直接薫陶を受けた人物である。新渡戸稲造や内村鑑三の一年先輩に当たる。彼は同校教授、同志社教授を経て、湛山が第5学年に進級できた1901年(同34)春、この山梨県立第一中学校に着任したのである。のちに音韻学で文学博士号を授与される大島は、敬虔なキリスト教徒であり、物事にかかわらず意気盛んな豪傑肌で、細々とした校則を一切廃し、自主性を尊ぶアメリカ的民主主義・個人主義の教育方針をもって学生に臨んだ。それはクラークの教育そのものであったといってよい。少年期の盛りにあった湛山は、従来の「べからず」一辺倒の教育方針とまったく異質な大島の寛大な態度に強烈な印象を覚えた。そして大島からしばしばクラーク博士の話を聞き、「なるほど真の教師とは、かくあるものか」と感動した(前掲『湛山回想』23~4頁)。概して日本社会では、個人主義はすなわち利己主義と即断され排撃される傾向があったが、湛山は近代における醇化された個人主義はそうしたものではなく、「一切の行為の規準を自覚に求める」ことにその精髄があると理解したのである。
湛山がその生涯を通じてクラーク博士と大島の教育方針に深く感化されたことは、ジャーナリストとなって以降、たびたび個人主義の教育論を唱えていることに現われている。「『可からず』主義の教育」(『東洋時論』1912年10月号)、「青年よ、志を大にせよ――新卒業生に対する記者の祝辞」(『東洋経済新報』1927年3月12日号)、「クラーク博士の教育」(『同』1946年3月9日号)など、いずれも教育は「べからず」主義では駄目であり、世の中に在るものは何でも見せ、何でもさせて、そしてそれに惑わされないような積極的教育が必要であり、青年男女に道 徳教育を施そうとするならば、個人の判断力を養うことに努めなければならないと説いている。

一方、中学時代の『校友会雑誌』は、湛山が4年生から5年生にかけて校友会の学術部総会で、ほぼ毎回、演説や文章朗読に積極的に参加した記録を伝えている。たとえば演説では、「古今亡国を例証して大に義に拠らざるべからずと論ぜり」などスケールの大きな演題が目につく。また論説「石田三成論」は、「世人が想像せる如くの軽薄なる一個の小人にあらず」、従来の史伝が「好悪によりて事実をいつわり、成を正とし、敗を邪とするの陋見(ろうけん)」にあり、「是非は後人の公説によりて定る」と指摘したり、「湛山随想」では、当時波紋を投げ掛けた政治家星亨(ほしとおる)の暗殺について、「星が殺されたのは世の為めに実に良い教訓であった」と断言するなど、彼の歴史や政治への強い関心を示している。さらに「消夏随筆」では当時の仏教界を痛烈に批判し、仏教のあるべき姿を述べ、日蓮を讃えている。卒業の前年、湛山は級友の荒井金造に、「善につけ悪につけ法花経をすつるは地獄の業なるべし(中略)我日本の柱とならん我日本の眼目とならん我れ日本の大船とならん等とちかひし願破るべからず」と日蓮の『開目鈔』の一節を書き贈った事実と併せ、彼の熱い宗教心を如実に語っている。そのほか剣道部での活動報告や強行遠足の発表など、活発な学生生活が偲ばれ、落第生として意気消沈している様子がまったく窺えない(浅川保「『校友会雑誌』にみる若き日の石橋湛山」および「石橋湛山――中学時代の作文」参照)。
むしろ彼は大島校長を通じて、第二のクラークになりたいと願い、「ボーイズ、ビー、アンビッシャス(Boys, be ambitious!)」を実践しようと心に誓ったかのように見受けられる。日清戦争後の国民的風潮として軍人が尊敬され、少年たちの憧れとなったが、彼は一度たりとも軍人になりたいとは思わなかったという。

以上のように中学時代の湛山は、湛誓・日謙の下で幼少から慣れ親しんだ日蓮宗と、クラークの意志を受け継ぐ大島を介したキリスト教という二つの宗教を自己の精神的基盤とし、すでに芽生えていた宗教家的かつ教育者的志望の念をいっそう深めた。つまり、青少年期の十数年に及ぶ寺院生活の中で、ヒューマニズム(人間の尊厳)を体得し、平和社会確立のための献身的奉仕をきわめて自然に意識して、宗教家、思想家、実践家となることを人生の目標にしたといえる。このことが戦後期に湛山が政界へと転身する伏線ともなる。その意味で、彼の中学生時代は湛山の人間形成上きわめて重要な時期であった。

1902年(同35)3月、日英同盟締結直後、17歳の湛山は7年を要して第一中学を卒業した。同期生53名のうち、席次17番であった。湛山と正式に改名したのはこのときである。4月、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)受験のため、上京。しかし7月の試験は不合格となった。翌年再度受験したが、またもや失敗し、早稲田大学高等予科の編入試験を受け合格、9月に入学することになった。
こうして郷里山梨での生活に終止符を打ち、東京での下宿生活が始まった。

 


解説
中学時代の湛山は、湛誓・日謙の下で幼少から慣れ親しんだ日蓮宗と、クラークの意志を受け継ぐ大島を介したキリスト教という二つの宗教を自己の精神的基盤とし、すでに芽生えていた宗教家的かつ教育者的志望の念をいっそう深めた。つまり、青少年期の十数年に及ぶ寺院生活の中で、ヒューマニズム(人間の尊厳)を体得し、平和社会確立のための献身的奉仕をきわめて自然に意識して、宗教家、思想家、実践家となることを人生の目標にしたといえる。このことが戦後期に湛山が政界へと転身する伏線ともなる。その意味で、彼の中学生時代は湛山の人間形成上きわめて重要な時期であった。

なるほど、クラーク博士の意志を受け継ぐ大島校長の影響をうけて、湛山はリベラルな思想を受け入れたのですね。

「当時の仏教界を痛烈に批判し、仏教のあるべき姿を述べ、日蓮を讃えている」とありますが、もう少し具体的な内容を知りたいものです。

 

獅子風蓮