獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

アクティビスト・友岡雅弥の見た福島 その6

2024-03-29 01:52:02 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。

貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。

 


カテゴリー: FUKUSHIMA FACT 

FF6-「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと
――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その6) 
アクティビスト、ソーシャル・ライター
友岡雅弥
2018年3月21日 投稿


【飯舘村 各地域の自治・自立】

1970年(昭和45年)。おりしも、大阪万博が開かれ、田中角栄首相の「日本列島改造論」が、世論を沸かせました。高度経済成長の最後のピークと言ってもいいかもしれません。
水資源開発のため、全国各地に巨大ダムができ、福島県にも三春ダム、四時ダムなどが計画・着工されていました。そして、飯舘村にも、村の東北の端、大倉地区で、村を流れる真野川をせき止める「真野ダム」が計画されたのです。

ダムの建設について、問題となったのは「地域住民の分断」でした。もちろん、ダムが出来て、地域の一部が水没するということもありますが、もっと危惧されたのは、 補助金・補償金などの名目でばらまかれる「金」による、住民間の対立、離間でした。

飯舘村大倉地区の住民の代表が、参考のためにと、関東地方で建設が進むダムの見学に行った時のことです。
「一人暮らしのおばあさんがいて、みんなに支えられて暮らしていた。またそのおばあさんも、地域の人の子守をして、重宝され大事にされて いた。 しかし、建設が決まり、業者や行政から『金』の話が出てきて、村の団結が切り崩された。おばあさんは見捨てられ自殺した」というのです。

それで、「1人も見捨てない計画」、「先祖に申し訳が立ち、子孫から感謝される生活再建」を目標に、徹底的に地域住民で話し合いました。その熱意に行政も動かされ、ほとんど類例のない、住民本位の移転合意にこぎ着けたのです。
1980年(昭和55年)に合意は締結します。建設省(当時)内でも、「真野ダム方式」と呼ばれるモデル・ケースとなり、その時交渉に当たった村民の代表は、全国のダム予定地の住民の集まりに招かれて、講演・指導を行うほどの影響力をもったのです。

 

1980年(昭和55年)の作況指数7%という記録的な冷害への対応は、前述のように、「飯舘牛」のブランド化へとつながりましたが、より広く、「住民参加の地域づくり」の機運を飯舘村に広げていきました。このままでは、村は立ち行かなくなる、 若い人がいなくなる――今、全国各地の農村地帯で喫緊の課題となっていることです。
飯舘村は、その課題にいち早く取り組んだのです。

名産・特産を作るということは、確かに、産業としては大切です。村外の人にアピールすることはとても大切です。しかし、まず、村内の人たちが誇れる村、住み続けたいと思う村、「自分たちの村」を作ろう、という機運が起こったのです。

「村の主体は行政ではなく、自分たち。役場任せではいけない」という自覚の深化です。

若手職員、若手農家、いわゆる「肩書き」のない人たちを中心に代表を集めて、第三次総合振興計画が1983年から始まりました。それ以前から振興計画はあったのですが、「住民参加の地域づくり」が本格的に始まったのは、この第三次からです。

 

他地域のことで恐縮ですが、 日本で最も乳児死亡率が高かった岩手県の沢内村(湯田町と合併して、今は西和賀町)のことをご紹介しましょう。
深澤晟雄さんが1957年(昭和32年)に村長となり、全国に初めて乳児死亡率を0とした、後に「沢内生命行政」と高く評価される諸施策を行いました。村長が行ったことは多彩ですが、2つのことが特に評価できると思います。

1)「中央とパイプ」をたどって「東京詣で」をする代わりに、毎日、村内を歩き、青年会、婦人会、公民館活動を活性化した。
2)村内22の地区で、各地区1人を選び、保健委員会を作る。

2)についてですが、最初選ばれたのは、地域の「エラい」人たちばかりでした。
そこで、村長と、保健管理課の課長であり、国保沢内病院の副院長であった増田進ドクター(後に院長。 今もお元気で、旧沢内村村内に、 小さなクリニックを開いておられます)は、肩書きに関係なく、村に対して積極的に関わってくれる人という条件で、選び直しをしてもらいました。
すると、全員が女性となったのです。とても、示唆に富んだエピソードです。

これらの施策により、村人のなかに村の運営に主体的積極的に関わる雰囲気が醸成され、「沢内生命行政」と言われる画期的な仕組みができていったのです。

 

飯舘村でも同じでした。
「~地区長」などの肩書きは、代表する地域や団体の枠に縛られがちです。肩書きなく語り合う議論は、全員が地域や団体ではなく、「村の代表」の自覚に立つことを促していくでしょう。実際、この第三次総合振興計画の時、委員となったかたがたにうかがってみると、本音の飛び交う議論となったと、当時を述懐してくださいました。

飯舘村の「住民参加の地域づくり」が、1980年代から始まっていることは、注目に値すると思われます。なぜならば、それは、日本全体の方向とは「逆行」、今になってみれば、「先行」していたからです。

バブルへの山を猛スピードで登っていた日本社会は、「リゾート法(総合保養地域整備法)」を作り、多額の補助金が「バラマキ」され、「田舎」を、都市の「保養地」 として「開発」をしていったのです。“ゼネコン”や“コンサル”に「丸投げ」した、類似の大規模開発が日本各地で繰り広げられました。
同じような景観、同じようなホテルや別荘地、スキー場、ゴルフ場。そして、地元食材ではない、外国産のカニやビーフなどが並ぶブュッフェ。

それらの「リゾート地」の多くが、今、どうなっているかをみれば、「整備」というものの本質がどのようなものかが分かるでしょう。第一、当初の方向性からして、「都市住民」の保養用「リゾート」を作るというのです。地方住民は、そこには「主体」として視野にはいっていません。「都市住民」に「非日常」を提供するリゾートは、地域住民の「日常」からかけ離れたものだったのです。

飯舘村の場合は、住民が誇りを持って「飯舘村出身」と言えるような村を作ろうという、「村民主体」の計画を立てました。まず、そのためには、計画実行のプロセス自体に対して、村民が主体として参加すべきだと考えました。それが第三次総合振興計画でした。

1986年(昭和61年)、「いいたて夢創塾」が、村民によって自発的に出来ます。 若い村民が自由に村の将来を議論し、イベントなどの企画を行う場です。菅野典雄現村長は、このとき、若き酪農家であり、「夢創塾」の初代の塾長でした。
荒唐無稽な案も出ました。実現するかどうかは関係なく、ともかくでっかい夢を語ろうと、「新春ホラ吹き大会」(1987年から1998年まで続いた)を企画しましたが「瓢箪から駒」。現実のものとなり、そして村を変えた「ホラ」も出てきたのです。


【若妻の翼】

1988年の「新春ホラ吹き大会」で、1人の女性が「21世紀には、飯舘村には『村営主婦の翼』が飛んでいる」という「ホラ」を吹いたのです。そして、21世紀を待たずに、これが実現されたのです。

農繁期に、「農家のヨメ」を、村の費用で、海外に研修に行ってもらおうという企画です。しかも、11日間の研修先はヨーロッパです。「イエ」のしばりが強い田舎の農家、しかも農繁期。反対も多かったのですが、村は決行しました。以来、5回、91人の「農家のヨメ」がヨーロッパ各地へ出発しました。


このプロジェクトは、とても大きな成果をあげました。もちろん、村会議員や、村の各地区を代表する人材がどんどん、「若妻の翼」から出てきたのは、いわずもがなです。
さらに――。
「農家に嫁いだヨメは、嫁ぎ先のもの」という古い考えに揺さぶりをかけた。

参加した方々に「ヨーロッパで学んだのはどんなことですか」とお聴きすると、頻繁に返ってくることばは、「自治」「自立」「参加」「人権」「環境」。
「ヨメ」は、家の所有物ではなく、村の一員であり、それどころか、女性が積極的に発言することこそ、村をよくするのだという意識が共有されました。村に新しい風が吹き込んだのです。

飯舘村のかたがたの前で、釜ヶ崎の「紙芝居劇むすび」のおっちゃん達と一緒に公演をするとき、いつも、アドリブで、飯舘村の「小字(こあざ)」地名や、商店の名前、坂の名前などをセリフに入れ込んでいます。
あるときの公演で、「母さんが『若妻の翼』でドイツさー行ぐって言った時、大反対してごめん」と、夫役のアドリブを入れたのです。
びっくりするほどの大拍手が起こりました。男性からもです。

(写真:飯舘村の人々の前で公演する釜ヶ崎の「紙芝居劇むすび」)

終わってから、「私、二期生だったのよ」「私は一期生、そうそう、大反対だった」と何人もの人に声をかけられ、それぞれかなり長く想い出を語ってくださいました。
それほど、「若妻の翼」は、みんなの心に刻まれた大きなできごとだっ たのです。

「私自身も、『女は家を守るもの』っていう考え方だったけど、ドイツに行って、議会とか、農家の集まりで、女性のほうが積極的に発言しているのを見て、考え方が180度変わった」

「酪農家のところに行ったんだけど、搾りたてのミルクって、牛の体温の温かさでしょう。それを腐らないようにって、日本では電気代かけて、冷蔵庫で冷やす。でもね、見学行った先では、その電気代がもったいないと、搾りたてのミルクの熱で発電するシステムを作ってるの。たまげたよー。こういう細かいことから、未来は始まるんだなって。でっかいことは、もういらない。原発のこと考えても、もう日本も気づかなくてはならないときよねー」


その時、声をかけてくださった1人が、佐野ハツノさんでした。

ハツノさんは、第一回「若妻の翼」のメンバー。
周囲からいろいろ言われた。「ヨメは体が丈夫なだけでいい(労働力と跡継ぎを生むこと)、頭がよくなるとろくなヨメにはならない」と陰口も聞こえた。しかし、家族が後押しをしてくれた。

夫の幸正さんは、2013年まで村議会議員で、でも尊大なところが一つもなく、朴訥で、いつも、「むすび」の公演のときに、ニコニコとした顔で、無言の励ましをおくってくださっていました。忘れられないご夫妻です……。

ハツノさんは帰国後、生き方が変わった、と言います。

「進歩した暮らしって、都会にあるもんだと思ってたけれど、『翼』でヨーロッパいって気づいたんですよ。どこでも、健康で文化的な暮らしは出来るし、私たちがつくっていかないと」

「翼」プロジェクトで、ドイツのバイエルンの農家に泊まったとき、環境にも配慮し、家族内や近隣との平等な人間関係、また最先端技術も導入した「田舎暮らし」を目の当たりにし、「グリーンツーリズム」の可能性を実感された、といいます。
そして、飯舘村の飯樋に、農家暮らしを経験してもらう農家民宿「どうげ」(飯樋地区の地名、同慶より)をつくられました。

ハツノさんは、全国初の女性農業委員会会長にもなっています。また、「平成の大合併」に伴い、全国的に農業委員の縮小が危惧されていたとき、2004年(平成16年)4月14日、第159回国会農林水産委員会で審議された、「農業委員会等に関する法律の一部を改正する法律案(内閣提出第四九号)」で、全国の農業委員会の代表として、参考人意見を述べられています。

農村の女性の「未来の姿」そのものでした。

しかし、震災、原発事故、全村避難……。

避難してからは、福島市の松川仮設の管理者を務められました。急激な環境の変化で、認知症が進んだり、足腰が急に弱くなったりされた高齢者を支え続けられました。

「今、仮設で『までい着』づくりみんなでやっててね」と、微笑みながら語ってくださったハツノさん。

飯舘村では、着物を粗末にせず、古くなっても縫い直して着ていました。仮設には、そういう経験を積んだ、和裁の得意な高齢者がたくさんいました。古い着物を縫い直し、上着とズボンに別れた、日常にも「八レ」の日にも着られる「までい着」にするのです。
「までい」ということばについては、次に詳しく述べますが、「丹精込める」「大事にする」というような意味です。
ハツノさんの「までい着」は、「までい」の心を代表するものともいえるかもしれません。

「までい着」づくりは、生き甲斐の場、交流の場となりました。

着やすく、作りのしっかりした「までい着」は評判となり、東京の百貨店の催事でも人気になりました。内閣府の「女性のチャレンジ賞」にも選ばれました。

しかし、長く続く避難生活、先行きの見えない不安――心労のためか、ハツノさんは体調を崩され、2017年の8月26日、朝日が昇るとき息を引き取られました、享年70歳でした。


解説
飯舘村の「住民参加の地域づくり」が、1980年代から始まっていることは、注目に値すると思われます。なぜならば、それは、日本全体の方向とは「逆行」、今になってみれば、「先行」していたからです。

いろいろ勉強になります。
このように、努力をしてきた飯舘村の人々が、原発の事故によって故郷を追われたのですね。
残念なことです。

 

獅子風蓮