獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

佐藤優『日米開戦の真実』を読む(その16)

2024-11-12 01:24:27 | 佐藤優

創価学会の「内在的論理」を理解するためといって、創価学会側の文献のみを読み込み、創価学会べったりの論文を多数発表する佐藤優氏ですが、彼を批判するためには、それこそ彼の「内在的論理」を理解しなくてはならないと私は考えます。

というわけで、こんな本を読んでみました。

佐藤優/大川周明「日米開戦の真実-大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」


興味深い内容でしたので、引用したいと思います。

読者が読みやすく理解しやすいように、あたかも佐藤氏がこのブログを書いているかのように、私のブログのスタイルをまねて、この本の内容を再構成してみました。
必要に応じて、改行したり、文章を削除したりしますが、内容の変更はしません。

なるべく私(獅子風蓮)の意見は挟まないようにしますが、どうしても付け加えたいことがある場合は、コメント欄に書くことにします。

ご理解の上、お読みください。

日米開戦の真実
――大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く

□はじめに
□第一部 米国東亜侵略史(大川周明)
□第二部「国民は騙されていた」という虚構(佐藤優)
■第三部 英国東亜侵略史(大川周明)
■第四部 21世紀日本への遺産(佐藤優)
□あとがき


英国東亜侵略史(大川周明)

第五日 阿片戦争

銀に代わる「輸出品」の発見
今日は英国の支那進出について申し上げます。
支那の数々の物産のうち、古くから西洋で珍重されたのは、絹布及び茶であります。この高価なる品物は、印度航路のまだ開かれぬ前から、陸路中央亜細亜を経て欧羅巴に供給されていたのであります。そして最初に海路によってこの有利なる貿易を独占したのはポルトガルでありましたが、17世紀の初め、チャールズ一世の時に至り、英国商人の一団が、支那貿易に参加すべく、国王から特許状を与えられ、艦長ウェッデルがこの目的のために一小艦隊を率いて支那に向かい、 1635年、マカオに到着しました。すなわち我が国では三代将軍徳川家光の時に当たります。ポルトガルはこの新しき競争者の出現を憤り、一切の迫害を加えてそのマカオに拠ることを妨げたので、ウェッデルはこの地を去って広東に進もうとしました。
さて、艦隊が広東河口の虎門砲台に差しかかると、突然支那兵が砲撃を加えたので、ウェッデルは直ちにこれに応戦し、遂に砲台を占領してイギリス国旗を掲げました。その結果、支那はイギリスに通商を許し、交易の場所を広東城外に定めました。爾来、英国と支那との貿易は専ら広東を通じて行われ、やがてイギリス人は支那貿易において他の欧羅巴諸国を凌ぎ、少なくとも他国商人の取り扱う荷物でも、船は主としてイギリス船で運ばれ、ロンドンが支那商品の欧羅巴市場となりました。
さて初めに述べたように、イギリス人が広東から積み出す主要商品は、主として絹布と茶でありましたが、これに対して莫大の現銀を払わなければならなかったのであります。支那は当時、自給自足の国でありましたから、ほとんど欧羅巴貨物を必要とせず、ただ銀だけが欲しかったのであります。しかしながら、多量の銀を輸出することは、イギリスにとって甚だ苦痛であったので、これに代わるべき商品を求め、一石二鳥を獲んと苦心しました。そして現銀に代わるべき商品を英国商人は阿片において発見したのであります。
18世紀の中頃まで、阿片は多くペルシアで栽培され、それが支那に輸入されて一部の階級に愛用され、次第に広まっていく情勢にあったのであります。そこでイギリス商人は印度で阿片栽培を奨励し、やがて印度阿片が支那に輸入されはじめましたが、その額は年々増加していきました。それだけ支那の阿片吸飲者が激増したわけであります。

英国艦隊、砲撃を開始
この事は支那にとって二重の深刻なる打撃でありました。
第一には阿片中毒によって国民の心身が劣悪になります。
第二には従来とは反対に現銀が国外に流出しだします。それは銅銭に対する銀の騰貴を招き、租税収入は減少し、一般に経済的・財政的危機を誘発するおそれがあったのであります。
それゆえに支那は、すでに1796年に阿片の輸入を禁じ、1815年には国民に阿片吸飲を禁じておりますが、この年イギリス商人の輸入した阿片は三千箱でありました。1822年には両広総督院元が厳重に阿片販売を禁じましたが、度々の輸入禁止にかかわらず、この年の輸入額は一万箱に達していました。爾来、支那は毎年阿片禁止令を発し、その輸入及び吸飲を厳禁せんとしましたが、輸入も吸飲も年々増える一方で、結局どうすることも出来なかったのは、支那の官吏が賄賂を取って、見て見ぬふりをするからであります。そこで後には、どうせ防ぎきれないからというので、重税を課して輸入を黙許することにしたので、海岸到るところで密輸入が行われ、これを取り締まる大官までが、いつの間にやら阿片吸飲者となってしまった始末でありました。
支那政府は阿片政策についていろいろ頭を悩まし、これに対する政治家の意見も区々でありましたが、遂に阿片貿易に徹底した弾圧を加えるに決し、必要の場合には武力をも用いる覚悟をきめ、この目的のために1839年、林則徐を欽差大臣に任じて広東に派遣することになりました。林則徐は勇気もあり、精力もある愛国者でありました。彼は外国商人の所有する阿片は、禁制品だから支那官憲に引き渡せと要求して、約二万箱の阿片を押収してこれを焼いてしまいましたが、たまたまこの時に支那人がイギリス水夫のために殺された事件がありました。林則徐は犯人の引き渡しを要求したけれど、イギリス側がこれに応じなかったので、遂に最後通牒を発し、もし時間内に犯人を引き渡さなければ、広東市外商埠地内の英人区域を攻撃すべしと威嚇したので、商埠地居留の外国人はみなマカオに引き上げました。
ところがイギリスは、欣んで林則徐の挑発に応じたのであります。戦争はまず広州付近で、支那軍艦に対するイギリス側からの砲撃をもって始められましたが、イギリスは印度を根拠地とし、支那よりはるかに優越せる戦争技術を用い、易々と支那軍を破ったのであります。その陸海軍は、舟山列島・香港を略取し、次いで寧波・上海・呉淞・鎮江等を占領しました。今や英国艦隊は楊子江に侵入し、大運河による北支と中支との連絡を遮断し、まさに南京を衝く勢いを示したので、支那は1842年8月29日、南京でイギリスとの講和条約に調印せねばならなくなったのであります。
この南京条約は、今日まで支那を拘束する不平等条約の長き歴史の最初のものでありますが、この条約と翌1847年の補足条約とによって、ちょうど百年目に昨日我が軍が奪回した香港をイギリスに与え、イギリスのために広東・厦門・福州・寧波・上海の五港を開き、かつこれらの諸港においては、外国に対するこれまでの一切の制限を撤廃し、関税率と港湾税率とを定め、支那における外人の治外法権の基礎を置いたのであります。

マルクスの「阿片戦争」評
阿片戦争は、マルクスの言葉を借りて言えば「それを誘発した密輸入者どもの貪欲に適わしき残忍をもってイギリス人が行えるもの」であります。この戦争は深刻無限の影響を支那に与えております。
まず、イギリスと戦って惨めな敗北をしたために、満州朝廷の威信が地に落ちてしまい、その後決して再び回復されなかったのであります。五つの港が貿易の自由のために開かれて以来、数千の外国船が支那に殺到し来り、支那国内には瞬く間に英米の廉価なる器械製品が氾濫するようになり、手工を基礎とする支那産業は、機械と戦争の前には倒れ去る外、仕方がなかったのであります。いまや驚くべき多量の不生産的なる阿片が消費され、阿片貿易によって貴金属が流出したのに加えて、国内生産に及ぼした外国競争の破壊的影響が加わってきたのであります。
旧い支那が維持され、保存されるための第一要件は、完全に国を鎖ざしておくことでありましたが、今やその鎖国が、イギリスの武力によって苦もなく打ち破られたのであります。あたかも密封された柩の中に、注意深く納められてきたミイラが、一朝新鮮なる外気に触れると、たちどころにボロボロとなるように、阿片戦争は支那の財政・産業・道徳並びに政治機構の上に重大なる作用を及ぼし、必然的に支那国家の解体を促したのであります。
この時以来、急速に土地は腐敗した官吏や豪商の手に落ちていった。灌漑や堤防が投げやりにされたので、旱魃や洪水のたびごとに農民は貧困に陥った。匪賊の横行跋扈が年と共に甚だしくなった。騒動は各地に勃発した。その最も大規模なるものは、いうまでもなく1850年から64年にわたる長髪賊の乱であります。そして欧米列強、とりわけイギリスは、この動乱を好機として、いっそう強大なる根拠を支那において築き上げたのであります。

イギリス陸軍の主力は印度人だった
やがてアロー号事件を導火として、第二次英支戦争が行われました。アロー号というのは、香港政府に登録されていた支那船で、アイルランド人を船長とし、勝手に英国国旗を掲げて航海しておりましたが、水夫14名はみな支那人で、実は英国国旗の陰に隠れて阿片の密輸入を事としていた数々の船の一つであったのであります。
1856年、この船が広東下流の黄埔に碇泊していた時に、船長の留守中に支那兵が乗り込み、禁制品の阿片を発見したので、英国国旗を引き降ろし、乗組員12名を罪人として支那軍艦に引致しました。この些々たることを口実とし、また先年フランス宣教師が広西の田舎で殺されたので、支那に難題をふっかけていたフランスと連合し、1857年暮れ、英仏連合軍が広東を攻めてこれを陥れ、総督葉明シンを囚えてこれをカルカッタに送りましたが、1年の後にこれを幽死させております。そこで英国司令官は一書を北京に送り、支那全権は香港に来て和を講ぜよと申し入れたが、支那は無論これに応じなかったので、それならば直接北京政府と談判すると称(とな)えて、戦いを北方に移し、英仏連合軍は白河河口の太沽砲台を陥れ、河を遡って天津に入ったので、支那はやむなく両国と和議を結んだのが、いわゆる天津条約であります。この条約によってイギリスその他の列強は、北京に公使を駐在させること、すでに開かれた五港以外にさらに五港を開くこと、イギリス船舶のために揚子江を開放することなどを取りきめました。
この条約は北京で批准交換されるべきものであったが、支那側は上海でこれを行おうとしたので、イギリスは例によって武力をもって強行しようとし、1859年英国艦隊は天津に進航するに決しましたが、この度は太沽砲台から砲撃を受けて一旦退却した後、さらに英仏相結んで再び支那に宣戦し、海陸合わせて25000より成る英仏連合軍が、またもや支那を破って、この度は北京に進撃し、清国皇帝は熱河に蒙塵するに至りました。
この戦争においてイギリス陸軍の主力は、実に一万の印度兵でありました。印度人は英人のためにその国を奪われた上、同じ亜細亜の国々を征服する手先に使われて今日に及んでおります。こうして支那は、1860年10月、英仏両国と北京条約を結び、天津条約を確認し、天津を開港場とし、多額の償金を払いました。香港の対岸九龍を奪い取ったのもこの条約によってであります。1859年、この戦争がなお酣(たけなわ)であった時、イギリスの新聞、デーリーテレグラフは実に次のような社説を掲げております。
「大英帝国は支那の全海岸を襲撃し、首府を占領し、清帝をその宮廷より放逐し、将来起こり得る攻撃に対して実質的保障を得ねばならぬ。我が国家的象徴に侮辱を加えんとする支那官史を鞭にて打て。すべての支那将校を海賊や人殺しと同じく、英国軍艦の帆桁にかけよ。人殺しのごとき人相して、奇怪な服装をなせるこれら多数の悪党の姿は、笑うに堪えざるものである。支那に向かっては、イギリスが彼らより優秀であり、彼らの支配者たるべきものることを知らせねばならぬ」
誠に驚くべき征服欲であり、また驚くべき下品な言葉使いでもあります。
次いでイギリスは、さらに陸路によって支那への進出を試みました。すでにビルマを征服していたイギリスは1876年、ビルマと支那とを遮る嶮峻なる山脈を突破して、雲南省との通商路を開かんとし、ブラウン大佐を隊長として、ビルマのバモーから雲南省昆明に至るべき遠征隊を派遣することにしました。同時に英国領事館付書記生マーガリーが、上海から漢口に出て、湖南・雲南を経てバモーに出で、ここで準備を整え待っていたブラウン大佐に会し、その通訳兼案内者となって雲南に向かって引き返しましたが、途上ブラウン大佐に別れて出発し、雲南の一駅で何者かのために殺され、またブラウン大佐も支那兵のために囲まれ、目的を遂げずにビルマに引き返しました。この路が、今度の支那事変に至って開通したいわゆるビルマ・ルートであります。
イギリスは、このマーガリー事件を口実として支那を威嚇し、この年いわゆる芝罘(チーフ)条約を結びましたが、イギリスはこの条約によって、支那または印 度から自由に西蔵に入国し得るようになり、爾来、着々西蔵に勢力を扶植し、そのために幾度か支那と衝突しましたが、その都度支那は譲歩するだけでありました。そしてイギリスは西蔵を勢力範囲とすることによって、一面ロシアの印度侵略に備え、他面これを足場として雲南・四川への進出を執拗に続けたのであります。

同盟国日本への「悪辣なる妨害」
もし新興日本が支那保全をもってその不動の国是とし、かつこの国是を実行する力を具えていなかったならば、すでに阿弗利加大陸の分割を終え、満輻の帝国主義的野心を抱いて東亜に殺到し来れる欧米列強は、必ず支那分割を遂行し、イギリスは当然獅子の分け前を得たことと存じます。現に支那・印度・西蔵で活躍する名高きイギリス軍人ヤングハズバンドは、支那のように土地は広大、物産は豊富、しかもその全地域が人間の住むに適する温帯圏内に横たわる国土を、一個の民族が独占しているのは、神の御心に背く―― Against God's Will だと公言しているのであります。
日本の強大なる武力は、幸いにして支那を列強の俎板の上にのせなかったのでありますが、それでもイギリスの政治的・経済的進出を拒むに由なく、支那の最も大切なる動脈揚子江において、とりわけイギリスの勢力は嶄然(ざんぜん)他を凌いで強大となったのであります。従って日本が長江に経済的進出を始めるに及んで、その最も手強き妨害者はイギリスであったのです。その数々を列挙することは時間が許しませんが、ただ一つイギリスの悪辣なる妨害とはいかなるものであったかを示す実例を挙げます。
それは日英同盟が結ばれた翌年、すなわち1902年に、日本郵船会社が、かつて30年間揚子江に航路を張っていた英人マクベーンの事業を数百万円で買収し、その船に社旗を掲げて揚子江航路を開始すると、稀代の珍事が起こったのであります。すなわち上海・漢口をはじめ楊子江岸諸港の英国人居留地会が、郵船会社の船には一切今までマクベーン船舶の繋留せる水面に立ち寄るを許さずという決意をしたことであります。これは地所は売ったが空中権は売らないから、家を建ててはならぬというに等しい無理難題であります。
日本は極力抗議したけれど英人は頑として聴き入れず、郵船会社は百計尽きてフランス人に交渉し、不便ではあったがフランス居留地の水面に繋船し、遠く倉庫から迂回して荷物を揚げ卸しすることになったのであります。これが後の日清汽船会社の前身であります。日本はイギリス人の同様の意地悪き妨害と幾度か戦いながら、とにもかくにも長江流域に今日までの地位を築き上げたのであります。日本の長江発展史は、取りも直さず、イギリスとの経済闘争史であります。

 


佐藤氏による解説

19世紀の英中関係

ここで大川の英中関係についての分析に話を進めよう。
中国は自給自足が可能な、自己完結した経済圏をもっていた。ヨーロッパの商品に依存しなくても生活が可能であった。当時の中国は銀本位制を採っていたので、中国商品の対価としてイギリスに銀を求めた。中国商品に対する需要が大きかったため、価格は上昇する。そこで狡猾なイギリスは銀の代わりにアヘンで決済することを思いつく。

18世紀の中頃まで、阿片は多くペルシアで栽培され、それが支那に輸入されて一部の階級に愛用され、次第に広まっていく情勢にあったのであります。そこでイギリス商人は印度で阿片栽培を奨励し、やがて印度阿片が支那に輸入されはじめましたが、その額は年々増加していきました。それだけ支那の阿片吸飲者が激増したわけであります。
この事は支那にとって二重の深刻なる打撃でありました。
第一には阿片中毒によって国民の心身が劣悪になります。
第二には従来とは反対に現銀が国外に流出しだします。それは銅銭に対する銀の騰貴を招き、租税収入は減少し、一般に経済的・財政的危機を誘発するおそれがあったのであります。

中国人を麻薬中毒で廃人にし、しかも中国の富を収奪するというのはとんでもない話である。清朝もアヘン取り締まりを積極化し、林則徐を担当大臣に任命し、イギリスからのアヘン流入を阻止しようとした。これに対して、1840年にイギリスは戦争を仕掛けた。アヘン戦争である。中国は敗北し、1842年に南京条約を結ぶが、その結果、イギリスの治外法権を認めることになる。中国の欧米列強への従属がここから始まる。大川は中国のシステム自体にイギリスに敗れる原因があったと分析する。中国が自給自足を可能とする小世界にとどまることができたのは、鎖国が担保されていたからだ。この前提条件が崩れれば、軍事力に秀でた外国の支配下に置かれるのは必然的なのである。

旧い支那が維持され、保存されるための第一要件は、完全に国を鎖ざしておくことでありましたが、今やその鎖国が、イギリスの武力によって苦もなく打ち破られたのであります。あたかも密封された柩の中に、注意深く納められてきたミイラが、一朝新鮮なる外気に触れると、たちどころにボロボロとなるように、阿片戦争は支那の財政・産業・道徳並びに政治機構の上に重大なる作用を及ぼし、必然的に支那国家の解体を促したのであります。

欧米に資本主義が浸透するまで、世界はヨーロッパ、中東イスラーム世界、中華帝国などいくつかの小世界が並存するというシステムになっていた。日本が鎖国をしていたといっても中国、朝鮮、琉球とは関係を維持していたので、中華帝国の内部に位置していたことは間違いない。しかし、イギリスの自由主義的帝国主義が台頭したことにより、そのような小世界=鎖国の維持が不可能になってしまったのである。普遍主義の波に中国が呑み込まれはじめたのである。

 

構成・獅子風蓮