創価学会の「内在的論理」を理解するためといって、創価学会側の文献のみを読み込み、創価学会べったりの論文を多数発表する佐藤優氏ですが、彼を批判するためには、それこそ彼の「内在的論理」を理解しなくてはならないと私は考えます。
というわけで、こんな本を読んでみました。
佐藤優/大川周明「日米開戦の真実-大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」
興味深い内容でしたので、引用したいと思います。
読者が読みやすく理解しやすいように、あたかも佐藤氏がこのブログを書いているかのように、私のブログのスタイルをまねて、この本の内容を再構成してみました。
必要に応じて、改行したり、文章を削除したりしますが、内容の変更はしません。
なるべく私(獅子風蓮)の意見は挟まないようにしますが、どうしても付け加えたいことがある場合は、コメント欄に書くことにします。
ご理解の上、お読みください。
日米開戦の真実
――大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く
□はじめに
□第一部 米国東亜侵略史(大川周明)
□第二部「国民は騙されていた」という虚構(佐藤優)
■第三部 英国東亜侵略史(大川周明)
■第四部 21世紀日本への遺産(佐藤優)
□あとがき
英国東亜侵略史(大川周明)
第三日 印度征服の立役者R・クライヴ
ムガール帝国
イギリス人が純然たる金儲けのために初めて印度に渡って来たころは、印度ではムガール帝国の盛んな時でありました。この帝国はムガールすなわち蒙古人の帝国と呼ばれておりますけれど、その建国者バーバルは英雄タメルランの血を引いたトルコ人であります。もとは中央亜細亜の小国の君主にすぎなかったのでありますが、まずアフガニスタンを征服し、次いで印度に攻め入り、1526年には北印度全部を統一してムガール帝国の礎を置いたのであります。
彼は限りなき興味と教訓とに満ちたる自叙伝を書き残しておりますが、実に驚くべき天才で、欧羅巴の歴史家でさえも「古今東西の歴史において、バーバル皇帝よりも聡明で、魅力に富み、また好愛すべき君主はほとんどない」と言っております。その孫のアクバル大帝は、ほとんどイギリスのエリザベス女王と時を同じくし、50年の長きにわたって印度に君臨し、これに国家的統一と組織とを与えております。
アクバル大帝以前のトルコ人または蒙古人の印度支配は、要するに一種の軍事的占領にすぎなかったのでありますが、アクバルは、これを強大なる帝国としてその子ジャハーンギールに伝え、ジャハーンギールに次いでアウラングゼブが帝位を継いだのであります。ジャハーンギールの即位は1605年で、アウラングゼブが死んだのは1707年でありますから、私が昨日述べたイギリス東印度会社の前半期の活動は、取りも直さずこの二人の皇帝がムガール帝国に君臨していた時代であります。
イギリスの東洋進出は、その初めにおいては征服のために非ず、占領のために非ず、専ら貿易のためであったことは、度々繰り返した通りでありますが、東印度会社が印度と商売をはじめたころは、ちょうどムガール帝国の盛時に当たり、少なくとも北印度は政治的に統一され、平和の間に商売を営むのに好都合の時代でありましたので、東印度会社は印度で戦争をしようなどとは夢にも想っていなかったのであります。ところが、アウラングゼブ皇帝の治世後半から帝国の礎とみに揺らぎ、それまで従順であった諸藩王国が次第にデリー政府の統制に服さなくなったのであります。
ヴィンセント・スミスは、アウラングゼブの人となりを説明してこう書いております。
「彼は高邁なる知力の人であり、その文章が示すごとく燦然たる文筆の人であり、巧妙なる外交家であり、恐怖を知らぬ勇士であり、公平仁慈なる裁判官であり、練達なる行政家であり、その日常生活においては最も厳粛敬虔な修道士であったが、それにもかかわらずその政治は遂に失敗であった」
そしてその失敗の最大原因は、回教徒としての彼の信仰が、余りに熱烈であったからであります。彼以前のムガール君主は、宗教に対して極めて寛大でありましたが、アウラングゼブはその寛容政策を一擲して、回教を広めるために、従って異教徒を亡ぼすために、一切の非難、一切の抵抗、一切の政治的不利益を無視して全力を注ぎ、そのためにムガール帝国の最も勇敢なる護衛であったラージプト人を離反させ、南印度におけるマラーター人の魂に民族的憎悪の炎を燃え立たせたので、帝国の秩序はにわかに蒸れはじめ、民は塗炭の苦を嘗めるようになったのであります。
この混沌はアウラングゼブの死後、急速に激成されていきました。そこで印度会社は今までのように平和の間に商売が出来なくなり、貿易を支持するために兵力を用いるに決し、1686年に最初の印度遠征軍派遣をみましたが、この時はアウラングゼブ皇帝時代のこととはいえ、遠征軍は散々な目に遭い、1690年、ムガール皇帝に17万ポンドの償金を出し、その上「将来このような恥ずべき行為を繰り返さぬ」という約束の下に再び通商を許されたのであります。
英仏植民地争奪の舞台に
このイギリスの印度遠征軍は、12門または17門の大砲を具えた軍艦十隻、歩兵六百から成る小規模のものでありましたが、その目的だけは恐ろしく大規模であったのであります。すなわち印度の西海岸では、土民の船艦を捕獲してムガール帝国に宣戦する。東海岸では海上における一切のムガール船艦を拿捕し、ベンガル湾の北東隅にあるチッタゴンを占領し、ガンジス河を遡(さかのぼ)ってベンガル国の首府ダッカに至り、藩王との間に武力をもって強制して条約を結ぶというのであります。
これはイギリスと印度とがいかに遠距離であるか、印度の勢力はいかほどのものであるかについて全く無知であったから立てられた笑うべき計算であります。当時のムガール帝国は、衰えたりとはいえなお十万の大軍を擁し、ベンガル藩王でさえも直ちに四万の兵を動員し得たのでありますから、六百や千人のイギリス兵では、歯の立ちようがなかったのであります。
ただ、この時印度におけるイギリスの没落を救ったのは、その有力なる海上権で、英国軍艦が西海岸の一切の船舶を捕獲した上、艦隊を紅海及びペルシア湾に出動させて、印度とメッカの間を往復する回教徒の巡礼船を捕獲させたので、ムガール皇帝もようやく和意を生じたのであります。
これより先、フランスもまた諸国に遅れて印度に進出しております。種々の失敗を重ねた後、フランスでも印度会社と呼ぶ大きい団体が、ルイ十四世の保護の下に1664年に形成され、1674年に印度東海岸のポンディシェリ、1688年にはカルカッタ付近のチャンデルナガールに根拠地を築き、その他東及び西海岸の諸処に商館を置いて活動をはじめました。そして印度の政治的混沌に乗じ、互いに反目する諸藩王を争わせて漁夫の利を占めながら、次第に勢力を扶植していったので、勢いイギリスとの衝突を免れぬこととなりました。
そうしている間に欧羅巴では、スペイン王位相続を導因として英仏両国が相戦うことになったので、1744年以来、戦争はひいては印度にも及び、ここに印度は明白に英仏両国民の植民的覇権争奪の舞台となり、この世紀の初めより次第に政治的性質を帯びて来たイギリス東印度会社は、今や著しくその色彩を濃くするに至ったのであります。
印度における英仏両国の角逐は多年にわたり、互いに勝敗あったのでありますが、初めの間は勇敢大胆なるフランスの指揮者デュプレークス及びラ・ブールドネ等の武断政策が、着々効を奏して、イギリスの地位は次第に不利となり、1753年にはイギリス東印度会社より本国政府に干渉を請うて、その結果一時休戦を見るに至りました。それから1756年には、イギリス勢力の衰えに乗じ、以前から英人の無遠慮なる進出を恨んでいたベンガル藩王スラージャ・ウッダウラがカルカッタを襲撃し、146人のイギリス人を小さい部屋に閉じ籠めて、遂に悉くこれを窒息させた、いわゆるブラック・ホールの悲劇があり、イギリスの形勢日に非ならんとしたのであります。
32歳の陸軍中佐
このような時に当たり、形勢を一変してイギリスの地位を回復したのは、実にクライヴの機略と勇気とであります。
イギリスはスラージャ・ウッダウラの襲撃に対抗するため、ワトソン提督に2400の兵を与え、マドラスからベンガルに艦隊を派遣したのでありましたが、この遠征隊の中に当年32歳の陸軍中佐、ロバート・クライヴが加わっていたのであります。東印度会社の重役達は、艦隊派遣はもともとベンガル藩王の膺懲が目的でなく、会社が営業を始められる状態に復帰すればそれで満足なのであります から、藩王から和平を申し入れると、直ぐさまこれに応じて停戦状態に入ったのであります。ところが藩王は故意に交渉を長びかせ、その間にいろいろな権謀術策を用いて有利に問題を解決しようとしましたので、クライヴの方でも負けず劣らず陰謀をめぐらしました。
彼はその放った間諜によって、藩王の周囲には、機会あらば自ら取って代わらんと謀叛を企んでいる者があり、その中で最も有力なのは藩王の総軍司令官ミル・ジャファールであることを知り、一方で藩王と和平交渉を続けながら、他方でこのミル・ジャファールを籠絡して、彼を助けてベンガル藩王とする計画を進めていきました。そして準備が出来ると、藩王に向かって英国の堪忍袋の緒はもはや切れたから、諸種の懸案を即刻解決したいと申し込んだのであります。
藩王はクライヴの言葉の意味を直覚し、彼の挑戦に応ずるため急ぎ軍隊を集結し、歩兵5万、騎兵1万4千、大砲50門を具えた上、フランスからの援軍を得て、イギリスとの一戦を覚悟しました。この時クライヴの兵はわずかに2400でありましたが、彼はミル・ジャファールと打ち合わせ、適当な時機に藩王に叛(そむ)いて部下と共にイギリス軍に投降させる手筈を整え、安心して行軍を開始したのであります。
いまや両軍はプラッシーの野に対陣し、戦火を開くばかりになりましたが、ミル・ジャファールは約束に背いて定められた時刻に行動を起こさなかったのであります。そこでイギリスは2400の寡兵で6万5千の大敵と雌雄を決せねばならぬこととなったので、イギリス側の軍事会議は甚だしく絶望的な空気に包まれ、みな激しくクライヴを非難して、いかなることがあってもこの無謀なる会戦は避けねばならぬと主張したのであります。
クライヴは黙々として彼らの喧々囂々たる議論を聞いていましたが、やがてすっくと立ち上がり、「一時間後に何を為すかを言ってやる」と言ったまま、大木の下にいって横臥していました。そしてまさに一時間の後に「戦争だ! 明日すなわち1757年7月22日、我らは印度軍に向かって進撃する」と命令したのであります。
そして灼けつく熱さの中を行軍して、印度軍を距(へだて)る1マイルの森の中にその日は野営を張り、翌日黎明から激しい会戦を始めたのでありますが、必死の英軍の前にベンガル軍は次第に旗色悪くなり、遂に応戦の手を弛めて退却に移り出した時、初めてミル・ジャファールが動き出し、ここに勝敗は忽ち決し、藩王は都を棄てて亡命したのであります。
クライヴはミル・ジャファールの臆病な行為などは素知らぬ顔をして彼をベンガル藩王の位につかせ、たちどころに銀貨で80万ポンドの賠償金を英国側に支払わせた上、自分自身も30万ポンドに相当する金銀宝玉をこの新しきベンガル王からせしめて引き上げたのであります。すると前藩王の一族の一人が、ミル・ジャファール征伐の軍を起こしてデリーから追撃して来たので、クライヴは軍を回して敵軍を走らせ、ミル・ジャファールの危機を救った報酬として30万ポンドの年金を終身彼に与える約束をさせました。さてこの時、イギリスと角逐していたオランダがカルカッタ占領を企てて、軍艦七隻に1万5千の兵をのせフーグリ河口に押し寄せたのであります。ミル・ジャファールはクライヴが煙たくもあるし30万ポンドの金も支払いたくないので、密かにオランダ人を煽動して、ベンガルにおけるイギリス人の根拠を覆そうとしたのでありますが、この時もクライヴは機先を制してオランダ艦隊を襲撃し、遂にこれを降したのであります。この時の戦いに、一弾来ってクライヴの帽子を貫きましたが、クライヴは帽子を脱いで弾痕を見ながら冷然として「この帽子はまだ役に立つ」と言い、再びこれを頭 にのせ、剣を抜いて敵艦隊の中に小船を乗り込ませたことは有名な話であります。
戦い終わってクライヴはミル・ジャファールに会いましたが、オランダとのことなどは口にも出さず、丁寧に外交辞令を取り交わして引き上げたのであります。それはミル・ジャファールがもはや完全に英国の手中に落ちたのでありますから、釈明を求めることもこれを叱責する必要も無くなったからであります。実にクライヴの外交術策と武力行動とが一挙にして印度の東北一帯をイギリスの勢力範囲とし、会社の中心をマドラスからカルカッタに移させることになったのであります。そして1765年には、当時の一中佐クライヴがベンガル総督兼軍司令官として印度に来て、在職1年半の間にベンガル、オリッサ、ビハール3国――実にフランスよりも大きい地域を事実上、イギリスの領土としたのであります。
「印度統治法」の制定
ところで会社の印度統治は、土民に対して甚だしく過酷無理解であったので、到るところ土民の反抗を激成し、諸処に叛乱の勃発を見るに至りましたが、イギリスはその都度これを鎮圧して領土を広めていきました。ただし連年の戦争のために莫大なる戦費を必要としたので、たとえ貿易で儲けたとはいえ、会社の財政は次第に困難に陥り、その上、会社の印度政策が議会において激しく非難の的となったので、ウィリアム・ピットの内閣において、東印度会社を完全に本国政府の監督下に置く、いわゆるピットの印度法が制定され、印度事務の最高管理は会社の手を離れ、最初貿易を目的として始められた仕事が、今や貿易と関係なき人々の管理に帰し、会社は全く政治的性質を帯びるに至りました。これは1784年のことであります。
このように政府と会社とが相並んで印度に臨んだ時代を「二重統治」の時代と申しますが、イギリスが印度に対する積極的侵略を断行したのはこの時代のことで、1798年、ウェルズリが印度総督になった時から始まり、次いでヘスティングスがこれを遂行し、最後にダルハウジ総督によって狂熱的に行われたのであります。
1857年、この年は井伊掃部頭が大老となった年でありますが、この年6月23日、ロンドンではプラッシー会戦百年記念祭が行われ、人々が荐(しき)りにクライヴの勲功を讃えていたその時に、イギリスの圧迫に堪えかねた印度土人軍隊が起って叛乱を起こしました。この未曾有の凶報が数日後ロンドンに達した時の朝野の驚きは大変であったのです。叛乱はほとんどガンジス河の全流域に波及し、英国の印度支配は覆されるかに見えましたが、東印度会社から年金を受けていた印度の王侯貴族がこれに加わらず、その他の上層階級もまた立ち上がらなかったので、半年の後に徹底的に鎮圧されてしまいました。
ただし、この動乱は二重統治の不備を遺憾なく暴露したので、翌1858年の「印度統治法」により、印度統治の大権はすべてイギリス国王の手に移り、1873年、東印度会社は解散し、次いで1876年、イギリス女王ヴィクトリアが印度皇帝の位につき、ここに印度帝国の建設を終わったのであります。
【佐藤氏による解説】
19世紀の英中関係
フランスを下した結果、イギリスにとっては現状維持が最も有利な選択になる。
イギリスの「名誉ある孤立」は、強さの証なのである。アメリカも現在「一極主義外交」を展開しているが、これもイギリスの「名誉ある孤立」の再現で、従って、アメリカの強さの証なのである。
イギリスが、新興国を押さえつける手法も陰険である。
まず主敵を一ヵ国に絞る。それ以外の国については極力味方につけるか、少なくとも中立を維持させる。その上で主敵をやっつけるのだが、徹底的にはやらない。余力をある程度残したところで、敵国の名誉を維持しながら講和をする。そして、かつての敵国を今度は味方に取り込み、次に現れる主敵と戦う際に、現在は同盟国となった旧敵国を尖兵として用いるのである。イギリスのインド植民地化に即して大川は説明する。
その手法は奏功し、19世紀にイギリスは世界領域の4分の1を支配し、その人口は全人類の3分の1に及んだ。イギリスは平和裏に世界の覇権を獲得したと主張するがそれは偽りだ。繰り返すがイギリスの手法は狡猾である。まず自国を戦場にせずに、ヨーロッパ大陸や海上で戦闘を展開する。そして、敵をイギリスと利権が競合する最強国に絞り、それ以外の諸国とは、利権の競合が生じる場合でもできるだけ友好関係を維持するようにつとめる。戦争が起きても敵国を徹底的にやりこめることは避ける。敵国の名誉と余力を保全し、戦後は旧敵国をイギリスの味方に抱き込もうとするのである。
その結果、19世紀にイギリスは帝国主義国として世界の覇権を握るに至った。 最強国は守りの姿勢にたつ。現状維持、すなわち保守がイギリスの国益に最も貢献するからである。ロシア、フランスがイギリスの思惑と異なる行動をとったが故に叩き潰された。イギリスに対抗する力が残っている帝国主義国はドイツしかない。そこで大川は、まずイギリスとドイツが対決して西洋世界における第一位を決定し、その西洋最強国が東洋最強国と対決するのが歴史の必然と考えるのである。
もっともイギリスは、ヨーロッパ列強、場合によってはアメリカと覇権獲得戦争を行うことは想定していたが、弱いアジア諸国はトーナメント戦への出場権すら持っていないと考えていたので、大川の発想とイギリス帝国主義の現実はうまくかみ合わない。第三章で日露戦争前後にヨーロッパで黄禍論が流行したことについて触れたが、イギリスで黄禍論はほとんど唱えられなかった。これは日英同盟でイギリスが日露戦争における日本の勝利に利益を見出していたということだけでは説明できない。なぜなら、黄禍論のような人種主義的言説、排外主義的言説は、政治エリートの思惑で統制できず、マスメディアや広範な国民の間で流通する性格を帯びているからだ。イギリスで黄禍論が流行しなかったのは、イギリス人全体が、いわば集合的無意識として、日本人や中国人がイギリスに脅威を与えるほどの力はもっていないし、これからももつことはないと考えていたからである。イギリスの対中国政策を見るならば、筆者の評価が極論ではないことが理解していただけると思う。
(つづく)
構成・獅子風蓮